なぜ中国大陸にいち早く古代国家が生まれたのだろうか?それを知るためにも古代国家が生まれる前段階の農耕社会を、その発生から展開、変遷について調べ、到達した古代国家の枠組を整理していきたい。
■東アジアの農耕社会
華北の河北省南荘頭遺跡・河北省天年遺跡・北京市東胡林遺跡、華中の湖南省玉セン岩遺跡・江西省仙人洞遺跡、華南の広西壮族自治区桂林甑皮岩遺跡など、中国全土から1万年を遡る土器が出土している。
メソポタミア文明を生んだ西アジアにおいても土器の出現はせいぜい8000年前であり、東アジア諸地域の土器の出現は世界的にみても最古地である。東アジア各地で更新世から完新世を迎える時期に土器が出現している。
この時期に、中国大陸では華北ではアワ・キビを、華中ではイネを栽培化していった。東アジア各地は土器が出現する段階に、それまでの獲物を追って移動した遊動社会から、植物資源の採取を基盤とした定住化社会へと変化していった。
穀物栽培が発生した華北や華中では、更新紀には高原や丘陵の分布が見られたものから、完新世には平原へ遺跡の分布の中心が移動している。これはまさに生態系の変化から新たな人類の適応戦略の中で、植物資源への依存の高さを物語る。こうした中、華北・華中では禾本科植物である穀物が食物資源として重要な存在になった。
一方、日本列島から極東は、照葉樹林帯から落葉樹林帯の森林帯の発達が、ドングリやクルミなどの豊かな堅果類を提供している。堅果類を中心とした植物資源が採取戦略の中心になっていくのである。
他方、亜熱帯から熱帯域の華南では、果実や根菜類など豊富な食料資源が存在する。こうした多様な植物質食料が人々の安定した食料源であった。各地で始まった植物質食料を中心とした採取活動、さらにそれを補完する狩猟や漁といった生業形態に支えられながら、東アジア各地では定住社会が始まっていった。
こうした中で禾本科植物を食料源の主体とする華北や華中では、ヤンガー・ドリアス期のような一時的な気候悪化は、さらに禾本科植物への依存を促し、人間の植物食への関わりが深まった。ここに生物学的理由とともに、人間の社会集団の組織化により、栽培という初期農耕が始まっていく。
初期農耕はそうした意味で決して豊かな社会を目指したものではなく、生態への適応戦略として人間集団が選んだ仕方のない選択肢の一つであった。したがってこの段階における食料採集と生産高という意味では、東アジア各地域はそれほど大差がない。むしろ採集のみに依存できる社会のほうがよほど安定した社会であったと言える。
完新世の始まる時期は、三地域とも「栽培化」という生産形態が起こったものの、社会的な内容と意味においては同一ラインにあり、ここよりそれぞれが新しい社会集団構成へと分岐し始めた。これからの注目点として、定住社会として同じスタートラインに立った東アジア各地域が、どうしてその後に社会進化に差異が生じたのかを見ていきたい。
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