新石器時代中期の仰韶文化・姜寨(きょうさい)遺跡から当時の居住形式・埋葬方法の変化を見てみる。
遺跡T期:環濠なし、集会施設あり。2つの住居跡が並列→半族の誕生
遺跡U期:環濠・集会施設あり。住居はさらに分割され4集団に。食料を貯蔵する多数の穴の存在(新石器時代前期の貯蔵穴は集団共有だったが、この時代細分化が進む)。家畜小屋は二つあり、半族単位での管理と想定される。
遺跡V期:環濠・集会施設あり。住居跡は一つ。集会施設が住居跡に比べて大型化しており、分割されてできた3集団は近隣へ分散していった=分村したと考えられる。
遺跡W期:多数の集団合葬墓(土葬後、白骨化した複数の死体を再埋葬した墓壙)となる。この再埋葬された頭骨はひとつの墓壙内では高い類似性を示し、かつ、再埋葬される死体の男女比は男性が多くなる。この男女比のアンバランスは初期の遺跡にはない傾向である。
出典:「講談社中国の歴史01 神話から歴史へ」
以上の居住形式・埋葬方法の変化から
@ 初期農耕集団の集団拡大過程において共同所有から私有or分割所有への流れが見て取れる。
A 人口増に対応して農地=縄張り拡大の動きがあり、それに連動して環濠が発生。縄張り=同類圧力の顕在化が見て取れる。
B 次第に分村(村を分割)に拍車がかかり、広域・分散化した氏族をどう統合するかという課題が発生。再埋葬の儀式が氏族の紐帯をなしたと考えられる。その再、再埋葬される死体の男女比のアンバランスから、父系により祖先を祀るという風習が発生していたと考えられる。
では拡大した集団の統合は何故、母系ではなく父系になったのであろうか?新石器時代後期(前3千年〜)には城壁が集落を取り囲む城址遺跡が一般化すること、また冷涼乾燥化が始まり特に主な狩猟動物であった鹿の生存域が大幅に縮小したことから、縄張り緊張圧力→部族連合の必要が急速に高まったとみることは間違いない。問題は、それ以前に、拡大氏族が父系で統合された訳である。
注目すべきは、狩猟(鹿)と畜産(豚)の比率の変化である。姜寨(きょうさい)遺跡初期は食糧危機から粟(アワ)黍(キビ)を主体とする雑穀農業と畜産(豚)依存度が高いが後期になる程、温暖化の進展により家畜(豚)依存度は低下し狩猟(鹿)中心の食生活になっていったことが出土する骨から伺える。温暖化の進展において南方でしか見られない鹿が生息し始めたこともあり、狩猟活動は容易になったことがこの狩猟傾斜の背景にあると思われる。家畜(豚)に依存する場合は集団原理は女原理主導となるが、狩猟(鹿)主導となれば男原理主導となるだろう。しかも、「狩猟活動が容易化」するということは勇士資格の引き下げということでもあろうから、本来ならば勇士足り得ない男による抜け駆け集団の発生が起こったことも想定の範囲内である。こうしたダメ男がつくりだす遠心力と首雄による統合志向の間で、分村と祭祀(祖先崇拝)という統合様式が生み出されたのではないだろうか?
同じ中国でも華南地方の民族の生産活動は専ら女性が担っている(従って母系)であるのに対して、仰韶文化の担い手は女性(農耕と畜産)と男性(狩猟)のパワーバランスの中で流動しながら、龍山時代の掠奪闘争へとなだれ込んでいったのではないだろうか?
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