ユーラシア東部では、新石器時代の展開は地域の生態系などの要因によって異なっており、大きく三つに分かれていました。シベリアでは旧石器時代とあまり替わらない移動型狩猟採集生活が新石器時代になっても続けられていて、黄河流域や長江流域では、新石器時代を特徴づけるものとして農耕の開始が認められます。両者の中間地帯である日本列島や極東では、魚介類を対象とする漁撈・小型動物の狩猟・堅果類を中心とする植物採集を組み合わせた、定住型の生活が展開されました。
現在の中国に相当する地域の新石器時代における自然地理による地域区分は、華北・華中・華南・東北・モンゴル高原・新疆・チベット高原の七つとされます。華北における新石器時代の開始は、農耕・牧畜・磨製石器・土器・織物の出現を指標とし、その時期は12000年前とされます。華北ではアワを中心とする畑作農耕(雑穀農耕)と牧畜が同時に見られるようになりました。6500〜6000年前頃に始まる、仰韶文化以降の雑穀農耕による黄河流域の文明を、黄河文明と称しています。黄河文明の担い手は、シナ・チベット語族の中国語を母語とする集団(03系統、漢民族に特異的な系統はO3e系統)とされています。
長江流域は、後期旧石器時代に細石刃文化ではなく剥片石器・礫器が広がっていて、黄河流域や東北部とは別の文化圏でした。長江流域を中心とする華中では、新石器時代になって世界ではじめて水稲を中心とする農耕が始まり、牧畜も行なわれていたようです。黄河文明より早く7000年前頃には始まる河姆渡文化以降の水稲農耕に基づく長江流域の文明を、長江文明と称しています。雑穀農耕の黄河文明と水稲農耕の長江文明は質的にも異なるうえに、担い手も異なっていたと推定されます。長江文明の担い手はオーストロアジア語族のO2系だと推定されています。長江文明は華北の黄河文明(中原の政治勢力)の拡大による圧迫により春秋戦国時代の末に崩壊してしまい(前473年の呉の滅亡と、前334年頃の越の滅亡とが指標となります)、長江文明を担った民であるO2系統は四散してしまいました。南方へ逃れた越の集団(O2a系統)以外にも、北東方向へ逃亡した集団(O2b系統)があり、その一部が倭と呼ばれていたようです。現在の長江流域には長江文明の母胎となった人々の言語は残っていませんが、東南アジアへ広く四散しているオーストロアジア系言語の民族へ、その言語と文化は受け継がれているようです。02系統は、現在にまでいたる水稲農耕という共通文化の基礎を提供しているかもしれません。
新石器時代早期の華南では、旧石器時代に連続する食糧採集型の移動生活が見られたようです。極東では日本列島と同様に新石器時代になり森林化が進んだことにより、ドングリやクルミなどの温帯落葉広葉樹林の堅果類による植物質食糧が容易に手に入るようになったため、アワ・キビなどの雑穀やイネによる農耕の必要性があまりなかったと思われますが、漁労は活発に行なわれていたようです。
朝鮮半島の水稲農耕は紀元前1000年紀中ごろまでには出現していたようで、その期限は直接的には長江文明に由来します。朝鮮半島南部では、紀元前5000年紀に西北九州と共通する漁撈文化が対馬海峡を挟んで出現してきますが、水稲文化の伝播以前なので、その担い手はO2系統ではなくD2系統と推定されます。朝鮮半島への黄河文明の影響は、文化的には早くからありましたが、政治的には遅れ、紀元前300年頃における中原勢力の嚥による遼西から遼東への進出に始まります。漢〜晋による朝鮮半島西北部の400年にわたる直接支配による黄河文明の政治文化的影響は、朝鮮半島にとどまらず、日本列島にたいしても甚大だったたようです。 |
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