「史記」などに、長江下流域以南に「百越」の存在が記されている。「百」とはたくさんの意である(於越、ビン越、揚越、南越、ラク越など)。
「越」は上古音で「ヲ」でありすなわち「倭」である。そうした倭族の拡散は秦の始皇帝の全国統一と前漢武帝の征伐により、東アジアから東南アジア、チベットにまで広がる。倭族の最古の遺跡はホムド遺跡で約7000年前に水稲農耕民として高床式住居で生活していたことが判明している。
「呉」の国は周公の長子の太伯がこの地に逃れ、倭族と同じに断髪、文身(刺青)し、建国したもの。呉の一部は山東半島に向けて北上した。文献では周代に徐、准など数国が存在し、漢族は「東夷」と呼んだ。紀元前473年春秋時代に呉が滅亡すると、倭族は稲作文化を携えて南朝鮮、日本に渡来した。「晋書倭人伝」に倭人が「自ら太伯のすえという」と記述があるのはその証左である。このとき南部にしか渡来しなかったのは、当時燕が真番や朝鮮を服属させ現在のピョンヤンまで要塞を築いており、亡命できなかったからである。
その倭族達が、韓族として馬韓を建国する。
一方、朝鮮半島の南端には韓族と区別された倭族が存在していた。これが「後漢書」に「馬韓は南は倭と接す」と謳われた倭である。面白いのは馬韓についても、「倭に近き故、文身するものあり」と記述があることである。
倭人の文身は古代倭族に共通して見られるが、朝鮮半島に渡来した倭族は一集団ではなく、先住のワイ族、パク族を制しながら倭族として築いたのが辰国である。対外的に認められると、民族としての呼称、韓族を得られたにすぎない。
南の倭族も同様だが、韓族の南下に抗った者達が、加羅という小国にとどまった。これが狗邪韓国である。 |
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