騎馬戦術を得た遊牧民は、農耕国家への掠奪戦へ可能性収束していき、強力な氏族を中核にした連合国家を形成する。
『騎馬民族国家』 江上波夫 より
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こうして騎馬民族となった遊牧民は、従来からの遊牧生活をやめはしなかったけれども、農耕地帯や貿易路を目標にした掠奪戦に主力をそそぐようになった。
そのあいだに内陸ユーラシアの騎馬民族の多くの者は掠奪戦をどうしてもっとも効果的に遂行するかとういう、すぐれて現実的な、そして彼らに共通の課題をもちながら、騎馬民族としての経験を深めていったのである。そうして彼らは、その課題の根本的な解決策として人間を集める必要を痛感した。
個々の戦士がいかに有能であり、果敢であっても、相当大きな集団的な兵力をもたなければ、今や彼らの行動を終始警戒し、防衛体制を整え始めた農耕地帯に攻撃を仕掛けて、必勝を期することは難しいことを悟ったからである。こうして創り出されたのが、「騎馬民族国家」という形での、彼らの集団化・組織化に他ならなかった。
すなわち、彼らの騎馬民族国家の本質は、現実の利益追求を目的とした人々が、そのために自ら組織した、すぐれて人為的な、政治・経済的な性格の強いものであった。いったい遊牧民の、集団化・組織化は、それ自体が彼ら本来の、遊牧的社会・経済に矛盾した面があった。遊牧民は、家畜を飼うのに、ひじょうに広い草地を必要とし、従って、分散して個々独立に生活しなければならない。
これに反して、多数の遊牧民を比較的狭い範囲内に集め、彼らを比較的強い紐帯で結びつけて、集団化・組織化するということは、彼ら本来の遊牧的あり方に矛盾するわけである。
・・・・つまり、多くの場合、掠奪戦の戦果があがり、その経済的利益が遊牧的生産より上回れば問題はない。しかし、下回れば人々はその集団、組織から脱退あるいは逃亡して遊牧生活に復帰しあるいはほかに生活の道をもとめて分散し、その「騎馬民族国家」は、崩壊ないし解消するのを通例とした。
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(引用以上)
その強力な軍事体制は、匈奴の例では
『モンゴルの歴史』 より
>匈奴帝国は多くの遊牧部族の連合体だった。司馬遷の伝えるところによると、単于の下には、左賢王、右賢王以下24人の部族長がいて、それぞれ多い者で1万人、少ない者で数千人の騎兵を率い「万騎」(万人隊長)と呼ばれた。こうした大臣たちの地位は皆世襲。
>モンゴル高原の遊牧民にとっての方位は、南(やや東南)が前で、北(やや西北)が後ろである。匈奴でも左翼の部族長たちは東方におり、北京以東、満州・朝鮮半島の前線を担当した。右翼の部族長たちは西方にいて陝西以西、中央アジア方面の前線を担当した。
>単于の本営は中央にあって、山西の前線を担当した。単于以下、それぞれ割り当ての土地があって、その範囲内で水と草を求めて移動するのである。24人の部族長はそれぞれ、千長(千人隊長)、百長(百人隊長)、什長(十人隊長)などの官を置いた。この匈奴帝国の仕組みは後世のモンゴル帝国と全く同じである。
(引用以上)
以上より、騎馬民族国家は、農耕地帯や交易路への掠奪を目的とした遊牧部族連合体であり、強力なリーダーが現れ、掠奪の可能性が開けると、史上忽然と姿を現し、可能性が閉ざされると崩壊していくことを繰り返した。
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