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縄文と弥生と古墳時代の境目
185637 大和王朝は騎馬民族王朝であると日本書記から類推
 
小澤紀夫  ( 40代 大阪 営業、企画 ) 08/09/14 AM01 【印刷用へ
「日本書記の罠」建築家渡辺豊和氏が運営しているサイトのなかで大和王朝は騎馬民族王朝であると紹介されています。古墳時代からの埋葬品と日本書記の記述を照らし合わせて解説しています。
 
「日本書記の罠」
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<引用開始>
 初期古墳時代は三世紀後半だがそれには崇神陵、景行陵や箸墓古墳などがそれにあたるわけだ。そこから四世紀後半までが前期。崇神朝も相当強大な王権を誇っていたのは想像できる。崇神三〇〇、垂仁二三七、景行二四七、書紀では目立たない成務すら二一八メートルの墳長なのだ。この巨大さは王権の強大を示すだろう。四世紀から五世紀初頭にかけてからが後期古墳だ。特に応神、仁徳、履中の三代が巨大。崇神朝を遥かに越す。墳長応神四一八、仁徳四八六、履中三六〇メートルだ。
 前期古墳では副葬品が鏡、剣、玉の三種神器を思わせる祭具や呪具が主となすが、四世紀末以後の後期になって副葬品の様相ががらりと変る。武器や馬具となり祭器や呪具はなくなってしまう。またハニワも甲冑をつけ姿は東北アジアの騎馬民族とそっくりの姿をしている。この変化は急激だ。ただし前方後円墳であることは前後期とも変らない。江上には副葬品の急激な変化が重要なのだ。

 この変化に対して日本は統一国家となりその余力をかって朝鮮半島に侵略し向うの文化を取り入れて武器、馬具を輸入した結果だという反論もある。しかしこれはナンセンスと江上は一刀両断する。ものだけが入ってきて人が来ないなどあるはずがない。
 それに当時の東アジア情勢を考えてみよと彼はいう。東北アジアの騎馬民族が南下し中国に北魏などの征服騎馬民族国家を樹立している。朝鮮だって高句麗、百済ともに中国東北地方、満州にいた騎馬民族扶余族の国家でないか。特に百済だ。百済こそ扶余が南下して樹立した征服騎馬民族国家なのだ。
 騎馬民族が南下し農耕民を征服して国家を樹立するのが四世紀の東アジア世界。これが日本にも波及していないはずがない。

 では日本の場合どうだったか。まずは古墳の巨大さ。これは世界レベルでも最高級だからこの王朝は間違いなく世界をにらんでいるのは確かだ。ともあれ書紀から読み解く。
 二番目のハツクニシラススメラミコト、崇神天皇こそ眞の王朝創始者で神武は架空。
 崇神天皇は御間城入彦、ミマキイリヒコ。この名前が彼の存在様態をよくあらわしているだろう。ミマキのキは城だから御間のミマの城に居住したととる。イリは居住というわけだ。
 ミマは書紀によくでてくる任那のことだ。ここが日本の領地だったのは確実だが崇神天皇は騎馬民族王で朝鮮半島を南下し任那を征服しそこに王朝を開いた。四世紀前半のことだ。これが王朝創始の第一段階。この崇神王朝が海を渡り北九州に王朝の根拠地を移す。
 崇神天皇から一〇〇年ほど経って北九州から東征し河内、大和を征服し王朝を作ったのが応神天皇でこれが騎馬民族征服王朝の二段階目。応神天皇は記紀でも北九州で生れたとあるのがその証拠。神武はこれをモデルに創作された。ただし征服されたのは書紀の崇神王朝となる。これは古墳からみても相当強大な王権だった。
 一段階目、二段階目も王朝創始者には崇神、応神と「神」がおくられている。彼らは大和朝廷にあっては特別の存在だったのだ。
 特に応神天皇。次の仁徳天皇と古墳がエジプトのピラミッドや古代中国、秦漢の皇帝陵に匹敵するほどに巨大なことでもその王権の強大さがしのばれ日本を統一していたことがわかる。
 記紀の神話伝承からでもおよそのことは推測できる。
 神武天皇の先祖は天神だがこれは天降りしたからで、天降りこそ騎馬民族が農耕民族を征服したことを示す。騎馬民族王は天神であって天から地上に降り立って王朝を開く伝承をもっている。記紀でも同じだ。だから大和王朝は騎馬民族王朝なのだ。神武は架空でも応神が投影されているのは間違いない。
<引用終了>
 
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