この図解を見て気が付くのはいずれも負けた輩が日本に漂着しているということである。
●倭国大乱で押し出されて新羅系、百済系が日本へ大量漂着
●継体天皇〜任那王本人?(物部が担ぎ出す)←王が任那から逃亡?
●百済から天智勢力がヤマトへ到着←百済から背走(その後百済滅亡)
百済勢力による巻き返し
●新羅から天武到着←新羅と唐の圧力がヤマトへ
百済勢力⇒新羅勢力へ
唯一違うのが天武のケース(天武だけは背走ではなく管理の為に日本に赴いた)。しかしこれすら、本国である新羅から主流ではなく放り出された可能性もある。猛々しい高句麗人とて、7世紀に入ってきた輩はすでに国土を奪われて日本にたどり着いた敗賊である。
無血革命に近い形で日本の中央集権が成され、そのまま律令制へ移行していった流れは隣国の血なまぐさい歴史から見れば特異でもある。
その理由のひとつに大和は負け組み渡来人が作った国という見方はできるのではないか?負け組みと言えば聞こえはよくないが、私権社会の負け組みである。裏返せば渡来人とて、私権性の低い民族の集積がその後の戦いを好まない日本人の体質を作っていった。
これだけの大量渡来人を受け入れながらも数的に圧倒的に少ない縄文人の体質を現在まで温存できているのは、渡来人と縄文人の間に相通じるものがあったのではないか。
つまり、日本人の形成とは縄文人の渡来人受け入れの歴史であると同時に渡来人の縄文体質への融合の歴史でもあったのだ。 |
|