長江文明について少し調べてみました。
●稲作の起源
最近の研究の進展によれば、稲の栽培は西アジアにおける小麦と大麦の栽培の始まりとほぼ同時期、つワり1万二千年前以上前にすでに長江中流域から下流域にかけて一帯で開始したことは明らかになる。
●稲作の黎明
およそ1万数千年前に、長江流域は広大かつ肥沃な沖積平原をもち、低い丘陵部や山間部が多く、原始林の覆われていた。長江流域では、広い草原地帯に隣接する北方の黄河流域とはことなり、生業のうち、北方で重要な地位を占めていた牧畜を行なう自然条件はほとんど存在していなかったと見られる。
とりわけ、最新の考古学研究では、人類による稲への最初のアプローチは、どうやら長江下流や中流域の中間地帯である江西省あたりから、中流域の洞庭湖周辺にかけての一帯でなされたことが明らかになりつつある。
●東方文明の曙:良渚(りょうしょ)文化
今日、長江下流域のデルタ地帯は、上海、寧波、蘇州など中国の中で最も豊かな現代都市を擁し、人口密度も非常に高いところである。気候が温暖、水始原が豊富。そして土地も肥沃なこの地域では、少なくとも紀元前5000年前もの前に、河姆渡文化と馬家浜文化といった。さらに長江デルタにある巨大な湖−太湖を中心とした地域に、ついに高度に発達した大文化圏が出現した。これが良渚文化(紀元前3300〜2200年)と呼ばれるものである。
既にこの良渚文化は、巨大な建造物、整然とした玉器系統などを見てもわかるが、さらに埋葬には激しい貧富の格差が示しているように厳格な階級社会だったことは間違いない。
●大文明の崩壊
およそ紀元前2000年代末頃、繁栄の頂点にあった良渚文化は、突然崩壊した。その崩壊の原因をめぐっては、最近多くの遺跡で良渚文化が往々にして洪水層の下に横たわっている事実が注目され、この文明はどうやら大洪水によって葬られたらしい。
当時は長江下流域の良渚文化圏が洪水に襲われただけでなく、黄河下流域も海に近いため良渚文化と密接な関係をもつ同地域の山東龍山文化が壊滅的な打撃を受けたらしい。
大洪水に見舞われた良渚文化の難民たちが逃げる行き先といえば、黄河中流域だったと考えられる。そして彼らのそうした動きは当然ながら黄河中流域の土着住民に大きな衝撃を与え、大混乱を引き起こし、衝突も避けられなかったはずである。
中国の古代の伝説によれば、黄河流域の部族を代表する黄帝が「東夷民族」に属する太?と少?および蚩尤と「?鹿」とうところで戦い、勝利して帝王になったという記録がある。「?鹿」とは現在の河北省南東部一帯にあたり、山東省西部と河南省北東部にも近い。(※太?と少?は山東龍山文化難民、蚩尤は良渚文化難民)
この大文明崩壊した紀元前22世紀頃という時期が、奇しくも黄河中流域では、中国最初の王朝国家される「夏王朝」が誕生する前夜である。「夏文化」にはその基礎部分に良渚文化の影響を強く認めている。
さらに夏王朝最後の王の桀も殷部族の成湯に倒された後、なぜかつての良渚文化圏の「南巣」を逃亡先と目指している。
(引用:「長江文明の発見」徐朝龍)
>夏王朝に良渚文化の影響が見られるとすれば、それは掠奪の結果だと思われます(40596)
上記の前半の記述では良渚文化難民が黄帝に負けたことになっていうが殷部族に倒されて良渚文化圏に戻っていることから考えればむしろ良渚文化難民が黄帝に勝った可能性もありその辺りも含めて続けて調べてみたいと思います。
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