2009年06月29日

火焔土器の正体~縄文人にとって日常生活と精霊信仰は常に一体

縄文に関する色んなサイトを見ていると、なかなか面白い仮説に出会いました。

参考サイト&写真引用:
松岡正剛の千夜千冊 遊蕩編 小林達雄 縄文人の文化力

小林さんは、この2種類の突起は決して装飾過剰から生まれたものではないと見た。これらは越後縄文人の観念の独自性を物語るための、比類のない「記号」なのである。むろんそれがどんな物語記号や観念記号であるかは解明されていないのだが、ともかくもそのように見ないかぎりはこのクニの特別な事情は解けないと見たのだ。

火焔土器は前から不思議だと感じていましたが、小林達雄先生の本 m061 の書評を読んで、こうじゃないか?と直感⇒投稿してみようと思います Surprised

byさーね
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posted by sawatan : | |

2009年06月26日

十字軍の遠征の目的(裏)とその結末

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十字軍のコンスタンティノポリス占領
お久しぶりです。
「十字軍の遠征の目的(表)」は見ていただけましたでしょうか?

十字軍の遠征は、1095年、拡大するイスラム勢力であるセルジューク朝に危機感を覚えたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝アレクシオス1世が、西ローマ帝国の教皇ウルバヌス2世(位1088~99)に援軍を要請したのがきっかけで始まりました。

要請を受けた西ローマ帝国の教皇ウルバヌス2世は、早速、傭兵を集めるために公会議を開いて演説をしました。

「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義の戦に倒れた者には罪の赦しが与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」

聖地イェルサレム回復のためにイスラム教徒に対する聖戦を提唱した。聴衆は「神、それを欲し給う」と叫び、演説はしばしば中断されたと言われる。


教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、騎士をはじめ貴族、商人、少年少女、羊飼い、犯罪者、乞食、売春婦など、延べ15万人もの人が集結しました。

なぜ、これだけの人が集まったのでしょうか?

三圃制や11~12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く耕す農法の普及など農業技術の進歩により生産力が高まっていましたが、封建制の完成によって、もはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていました。 農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放を望んでいた。
 勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかろうとした。

このように、農民や商人は、私権拡大を目的に十字軍に参加していたのです。
また、犯罪者は十字軍に参加することで、罪の軽減が約束されていました。

聖地奪還(もともとの注文は聖地奪還ではなく、援軍の要請でしたが)という表向きの目的とは程遠く、十字軍に参加した者の多くは、自らの私権拡大が目的でした。

果たしてこのような状態で、十字軍の遠征は当初の目的(聖地奪還)を果たすことができたのでしょうかConfused

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2009年06月25日

岡田英弘史観に学ぶ~中国とは、倭国とは?

モンゴル史研究の大御所岡田英弘氏は「中央ユーラシアの草原から東と西へ押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出した」という視点から世界史、日本史を見直されている。岡田説は、江上波夫先生の騎馬民族国家説と並び、従来の西洋中心史観あるいは中華中心史観の世界史の限界を超える上で重要な視点ではないだろうか。

ネット上でも、注目すべき書評がアップされているので紹介したい。まずは、岡田氏の中国とは何か?についての考察が面白い。

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2009年06月23日

交渉ごとの弱い日本人 受け継がれ続けてきた言霊信仰

日本人は、伝統的に交渉ごとに弱く、外交に常に負け続けてきた。思っていることをハッキリと口にできない民族で、損ばかりしていると言われる。

なぜ、こんなに交渉に弱いのか?

これには、日本民族に流れる『言霊信仰』が強く影響していると考えられる。

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2009年06月22日

継体天皇は応神天皇の弟であり、仁徳陵の被葬者である。

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日本で一番大きい古墳(大阪府堺市の仁徳陵)と二番目に大きい古墳(大阪府羽曳野市の応神陵)に埋葬されているのは百済の王子、しかも二人は兄弟、という異説を紹介します。世紀の大発見か?単なるトンでも説か?ブログならではの、大胆な仮説(or珍奇な仮説)に迫ります。

参考文献:林順治著「応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった~異説日本国家の起源」

筆者が紹介するのは主に、石渡信一郎氏という在野の古代研究家の研究成果です。江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」を継承しながら、さらに推し進めた説であり、古代日本国家が、新旧二つの朝鮮渡来集団によって建国されたことを論証していきます。

あらかじめお断りしておきますが、筆者は日本書紀や古墳から発掘された遺物に記された年号(神功50年とか辛亥年)を、西暦に置き換えるといつになるか?ということにかなりの紙数を費やしていますが、読み解くには相応の専門知識が必要で、それだけで2-3ヶ月の研究・追跡を要します。

なので、

ここでは、結論として、
石上神宮の七支刀に記された泰和四年=369年、日本書紀神功紀52年=252年と推定しているということの紹介にとどめ次に進めます。

ぶっとび説です。アタマの中が大混乱・混線しながらまとめてみました。

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posted by urara : | |