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   <title>縄文と古代文明を探求しよう！</title>
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   <updated>2010-03-15T14:39:31Z</updated>
   
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   <title>王権の生産　３</title>
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   <published>2010-03-15T01:16:12Z</published>
   <updated>2010-03-15T14:39:31Z</updated>
   
   <summary>　こんにちは～『王権の生産』シリーズ３回目です 。  　前回は、倭国が大規模内乱を収束するために、連合体を組織して、それを決定付けるために王を誕生させるという、稀な手順によって誕生したのがこの国の王であるということを示しました。 　縄文の共通意識が働いた末の産物で、評価できるという立場で記述しました。 　それでは次にくる課題『王権の移行』（次期王の選出）、つまり王の再生産はどのようにして行われたのでしょうか。ちょうど『国家意識』・『国家観』の成立過程に平行していた時代に焦点をあてて、３回にわけて記述したいと思います。 　充分知りえていることのおさらいになるかとは思いますが、ここを押さえること無しに『天皇家』の存在意義について考えることはできません。 　その後の長い歴史を知っているわたし達は、簡単に善悪をつけるとができますが、当時の意識や思考の成り立ちを考慮しながら（繰り返しますが、学習歴のない部分に思考は届きません）判断していく必用があると思っています。 　それではよろしくお願いします♪  ...</summary>
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      <name>milktea</name>
      
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      <![CDATA[　こんにちは～『王権の生産』シリーズ３回目です 。 

<span style="color:#009933;">　前回は、倭国が大規模内乱を収束するために、連合体を組織して、それを決定付けるために王を誕生させるという、稀な手順によって誕生したのがこの国の王であるということを示しました。</span>
　縄文の共通意識が働いた末の産物で、評価できるという立場で記述しました。
　それでは次にくる課題『王権の移行』（次期王の選出）、つまり王の再生産はどのようにして行われたのでしょうか。ちょうど<span style="color:#6666ff;">『国家意識』・『国家観』</span>の成立過程に平行していた時代に焦点をあてて、３回にわけて記述したいと思います。
　充分知りえていることのおさらいになるかとは思いますが、ここを押さえること無しに『天皇家』の存在意義について考えることはできません。
　<span style="color:#009933;">その後の長い歴史を知っているわたし達は、簡単に善悪をつけるとができますが、当時の意識や思考の成り立ちを考慮しながら（繰り返しますが、学習歴のない部分に思考は届きません）判断していく必用があると思っています。</span>
　それではよろしくお願いします♪
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      <![CDATA[<strong><span style="color:#ff3300;">王の再生産…卑弥呼と古墳の存在理由</span></strong>

<img alt="Untitled6.bmp" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/　pic/Untitled6.bmp" width="385" height="350" />
（大英博物館でわたしが撮影した写真です）

　前回までに、列島に最高首長である王が作り出されたいきさつについて考えてきました。
今回は、王であることの証をどのように示したかについて考察したいと思います。
　一口に『王』といっても、中央集権の上に立つ絶対君主とはかけ離れた、連合体の最高首長にすぎなかった倭国王にとって、その存続のために、連合体が納得するための『正当性』を示す必要があった。後漢が衰退し始めた以上、冊封による正当性では心もとない。そこで登場したのが卑弥呼という存在であると、遠山氏は主張しています。卑弥呼とは、個人名ではなく、地位名であるとした上で、次のように述べていますので、引用してみたいと思います。

<span style="color:#6666ff;">＊	「太陽の霊威をその身に付着させることのできる特殊な人格・女性」というその名義から推して、政治的統合の最高首長の首長権継承に正当性と荘厳性を宗教的に付与・保証する、呪術的資質をそなえた最高首長の近親女性だったのではないかと思われる。＊</span>（遠山美都男著、大化改新より）

　稲作を中心とした農耕と、海産物（塩を含む）によって生きる倭国の人々にとって、太陽光と雨に代表される自然の恵みは、天・海・山・川に宿る神を敬うことによってもたらされるという自然信仰を持っていました。この「神」は、「畏れ」とも重なり、いわゆる「日本神話」として確立・利用される以前の、素朴な概念と言えるでしょう。高級な青銅で作られた銅鐸は、祭りでのみ使用される楽器であったと言われています。この祭りは重要な儀礼であり、これを司る者は、神々の化身として、神と人を繋ぐ任を負っていました。このような立場に就く者は、首長とはまた違った意味において、尊厳を付着されていたことでしょう。
　『　最高首長である王は、この霊厳を身にまとった者によってその正当性を保証されたものとする』そんな合意が連合体によって確認されたということは、充分に考えられるのではないでしょうか。
　さて、卑弥呼と邪馬台国に関する所在の論争は、未だ決着がついていませんが、邪馬台国が九州にあったにせよ、畿内にあったにせよ、最終的に、その勢力基盤は畿内において確立されたと考えるのがその後の勢力の繋がりを考えると、妥当ではないかとわたしは考えます。また、当時の最高レベルの技法で作られた『三角縁神獣鏡』の大半が、畿内中心に出土されていることも、無関係ではないと考えられます。
　古墳に関しても、『正当性』の保証という位置付けができるのではないでしょうか。王の正当性を保証するものが、命に限りのある『人』では、あまりにも心もとないと考えられます。

　<span style="color:#6666ff;">＊	前方後円墳は各級の首長たちの懸案であった、首長権の継承をいかに円滑に行い、首長権の継承にいかに正当性と荘厳性を付与するか、という課題を解決するために創案された施設であった。＊</span>（遠山美都男著、大化改新より）

　大和地方を中心に、各地に作られた前方後円墳は、規模にこそ差があるものの、連合体に所属しているという証として、単なる首長の墓という以上の大きな意味があったのでしょう。そして、共通のシンボルとしての施設に、権力継承のための儀礼を執り行う場所という付加価値を与えたことで、王の再生産もまた、比較的スムーズに行えるようになったと考えられます。また、このような『正当性』を示さなければならなかったという事実が、王とはいえ、他を圧倒するような力の格差を持つまでには至っていなかったと考えられることに、わたしは注目したいと思います。
　『　絶対的ではなく、相対的に力を持つ者に『正当性』を示すという条件を負わせることで、王として擁立する。そうまでしても、大規模で慢性的な戦争（内乱）を回避したかった。そしてまず形から入って、徐々に基盤と支配構造を確立していく。』
　これが可能であったのは、大陸と海で隔てられた島国というラッキーな地理的条件があったからとはいえ、このような道筋を立て、実行可能なものに確立するだけの思考を当時の支配者層が持っていた、という事実に驚かされます。縄文の流れを汲む思考パターンが生き続けていると見ることができるでしょう。

<span style="color:#009933;">　社会を構成する意識の中に、『個』と『場』という対極の倫理観があります。現代の日本人は、出入り可能な『場』の構造の中にいるとされています。『場』の内部においては、場全体の平衡状態の維持に努めようとする力が働きます。
　この時代においては、まだここまでの意識構造が確立される程の社会であるとは思えませんし、縄文の流れを汲むとはいえ、私権文化を輸入した後の社会、内乱を経験した後の社会であることを考慮しなければなりません。ですが、連合体を一つの『場』という概念で考えるとき、その意識構造の萌芽を感じざるを得ません。
</span>
　この点については、各級の首長に率いられた一般庶民の意識にも到達していたと考えられます。情報の伝達は、上から下への一方通行であり、自らの考えでそこ以外からの情報、知識の習得に動くだけの手段は、持ち合わせていなかったはずです。またその必用性すら感じていなかった、ということです。
　これから先は、唯一ではなくても特定された一族の内部で、王権の移行、つまり王の再生産が行われるようになったのでしょう。

　次回は王の再生産…複数存在した王位継承権保持者として、次の段階の王位の移行について考えてみたいと思います。



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   <title>私権文明を問い直す　シリーズ7　私権の共認と一対婚の特殊性</title>
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   <published>2010-03-13T01:00:00Z</published>
   <updated>2010-03-13T14:23:27Z</updated>
   
   <summary>こんにちはsaahです。 前回、私婚の共認からいかにして私権の共認に繋がってゆくかを投稿しました。 今回もう少し、その因果関係を補足してみたいと思います。 ■ポイントは、本源集団の解体により婚姻規範が消滅して私的な婚姻関係(私婚)になったこと。 ○私婚関係から性権力の共認へ 　女：本源集団を失った女が性を武器に存在権確保に向かう 　　　→男を挑発しつつ供給制限⇒性の幻想化 　男：（農耕で）生産基盤の安定＝外圧低下⇒解脱収束→性欠乏上昇 　　　→女の挑発と供給制限でますます性欠乏上昇 両者が重なって「性的商品価値の共認」が成立。 それを手に入れる為に男は女に迎合せざるを得ない ∴「私的な男女解脱共認が成立」＝「性の権力化」 こうして性権力の共認が成立します。 続きは応援のポチを押してからお願いします。   ...</summary>
   <author>
      <name>saah</name>
      
   </author>
         <category term="ⅩⅠエトセトラ（その他諸々）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんにちはsaahです。

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/03/001024.html#more">前回</a>、私婚の共認からいかにして私権の共認に繋がってゆくかを投稿しました。
今回もう少し、その因果関係を補足してみたいと思います。

■ポイントは、<span style="color:#ff3300;"><strong>本源集団の解体により婚姻規範が消滅して私的な婚姻関係(私婚)になった</strong></span>こと。
<strong>○私婚関係から性権力の共認へ</strong>
　女：本源集団を失った女が性を武器に存在権確保に向かう
　　　→男を挑発しつつ供給制限⇒性の幻想化

　男：（農耕で）生産基盤の安定＝外圧低下⇒解脱収束→性欠乏上昇
　　　→女の挑発と供給制限でますます性欠乏上昇

両者が重なって<span style="background:#FFE3E3">「性的商品価値の共認」</span>が成立。
それを手に入れる為に男は女に迎合せざるを得ない
∴「私的な男女解脱共認が成立」＝<strong><span style="color:#ff3300;">「性の権力化」</span></strong>
こうして性権力の共認が成立します。

続きは応援のポチを押してからお願いします。
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]]>
      <![CDATA[<strong>○性権力の共認から占有権の共認へ</strong>　
女：性を武器に存在権の安定確保の為に私有要求を強める──┐
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="background:#FFE3E3">占有権が共認される</span>　
男：性権力を共認している以上男は女の要求に迎合　　　──┘

○社会の最基底部にある私的な男女解脱共認に基づいている以上、占有権の共認も社会の最基底部の共認となる。⇒<span style="background:#FFE3E3">「私権の共認」</span>

○社会の最基底部の共認を「私的な男女解脱共認」とし、それに基づく私的な婚姻関係を基底単位とすれば、私権に基づく私的婚姻＝私有婚は社会の最基底部の制度となる。
<span style="background:#FFE3E3">∴婚姻関係は私有婚＝一夫多妻となる。</span>（一人の男が女を所有する)

さらに世代交代のたびに土地の分割単位が縮小され、養える女の数が減り一夫一婦制へ！

<strong><span style="color:#ff3300;">一対婚とは、そもそも本源集団が消滅したが故に出来た「私的な｣男女解脱共認に基づく占有権(私権)の共認により生まれた私有婚である。</span></strong>もともと本源集団内では、婚姻関係に限らず私的な関係などなく、したがって婚姻関係も総遇婚であった。

■一対婚の特殊性
以下、<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=2&t=3#08">実現論</a>より引用です。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
<blockquote>今日、一対婚はあたかも人類の始原からそうであったかの様に、思われている。あるいは、初めはそうではなかったとしても、ごく自然に、一対婚という「あるべき形」に移行してきたのだと信じられている。（例えば、サル学者の中には、何とか一対婚家族の萌芽を見つけようという偏見に満ちた問題意識を持ってサル集団を研究している者さえ、多数いる始末である。）だが、それは大きな誤りである。事実は全く逆であって、<span style="background:#FFE3E3">一対婚は女と男の性的邪心を源泉とする掠奪闘争の帰結として、掠奪国家によって作られた私権（性権と占有権）に基づく婚姻制</span>であり、かつ世界中が自然に移行したのではなく、<span style="background:#FFE3E3">掠奪国家が人口の過半を占める採集部族をはじめ全ての平和な部族を皆殺しにし、あるいは支配することによって強制的に普遍化されていった婚姻制である。</span></blockquote>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC.jpg"><img alt="%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC-thumb.jpg" width="150" height="263" /></a>
一対婚規範が書かれた「十械」（写真は<a href="http://jiten.biglobe.ne.jp/j/f7/f0/91/1403ff3a7a7c8beaa1401968fc336532.htm">こちら</a>よりお借りしました)
<blockquote>なお、この点でも日本は特筆に値する文化基盤を持っている。日本人は長い間、採集部族として総偶婚（それも、最も原始的な兄妹総偶婚）を続け、一七〇〇年前に朝鮮からやってきた侵略部族に支配され統一国家が形成された後も、長い間総偶婚の流れを汲む夜這い婚を続けてきた（夜這い婚は、昭和30年頃まで一部で残っていた）。国家権力によって上から押し付けられた一対婚が庶民に定着するのは江戸時代中期からであり、現在までわずか三〇〇年間ぐらいしか経過していない。<span style="background:#FFE3E3">婚姻様式が社会の最基底に位置するものである</span>ことを考える時、この総偶婚のつい最近までの残存（or 一対婚の歴史の浅さ）は、日本人の心の底に残る縄文人的精神性を物語る貴重な文化基盤である。</blockquote>

東洋と西洋の違い（<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001008.html">リンク</a>、<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001015.html">リンク</a>）でも挙げたように、日本は1700年前まで掠奪闘争に巻き込まれず長い間本源集団を残し、それゆえ婚姻関係も総遇婚の流れを永く残してきました。

形の上では大陸からの侵略部族による支配を受け入れながらも、実質上は総遇婚の流れ、本源集団の規範を残してきた日本人。
私的な関係による充足よりも、本源的な集団性による行動により、日々充足を得てきたといえます。それは婚姻関係のみならず、ありとあらゆる関係において、私的な関係に勝るものだったのではないでしょうか。]]>
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   <title>「贈与」に何を学ぶべきか！～8.共生するための贈与☆</title>
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   <published>2010-03-12T14:03:00Z</published>
   <updated>2010-03-13T16:40:02Z</updated>
   
   <summary>こんにちは :D 「贈与」に何を学ぶべきか！」シリーズもいよいよ８作目です :m027:  :m028:  :m029:  前回は、カッピカピさんが①人口増加と生存域の拡大が、同類緊張圧力を生み出し、それによる同類間の闘争を回避するために贈与が始まったこと、②豊かさによって徐々に失いつつあった縄文人の『活力源』であることまでを解明してくれました :m034:  :m034:  　　　 それでは、引き続き「贈与」の追求です★★★ 続きの前にクリック応援お願いします :m023:   　 ...</summary>
   <author>
      <name>pingu</name>
      
   </author>
         <category term="縄文人の外圧" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんにちは :D 「贈与」に何を学ぶべきか！」シリーズもいよいよ８作目です :m027:  :m028:  :m029: 

前回は、カッピカピさんが①人口増加と生存域の拡大が、同類緊張圧力を生み出し、それによる同類間の闘争を回避するために贈与が始まったこと、②豊かさによって徐々に失いつつあった縄文人の『活力源』であることまでを解明してくれました :m034:  :m034: 

　　　<img alt="%E7%B8%84%E6%96%87%E5%BC%93%E7%9F%A2.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E7%B8%84%E6%96%87%E5%BC%93%E7%9F%A2.jpg" width="339" height="249" />


それでは、引き続き「贈与」の追求です<span style="color:#FFFF00;">★★★</span>

続きの前にクリック応援お願いします :m023: 

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      <![CDATA[るいネット「<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=29996">採取時代の適応原理</a>」より引用します。

 :m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216: 

<blockquote>＞贈与も同類闘争からの抜け道（回避策）としての共生（取引）原理に基づいたものだったのかもしれませんね。

採集部族や狩猟部族が採った同類緊張圧力の回避戦略が贈与や交叉総偶婚といった共生様式であったというのは、新しい認識ですね。

人類にとって闘争圧力（従って中心的な闘争課題）が、外敵圧力から同類圧力に変化したのは､約1万年前の弓矢の発明･普及からでなのでしょう。
この時代になって始めて人類は、洞窟など外敵の脅威の無い限られたニッチに小集団で隠れ住む事を止め、地上に進出しました。</blockquote>

<blockquote>＞観念機能（事実認識＝洞窟･貯蔵･火･調理具･戦闘具･舟･栽培･飼育）の進化によって生存力を強化した人類は、約1万年前、弓矢によって外敵と互角以上に闘えるようになった頃から洞窟を出て地上に進出する。そして地上に進出した人類は、忽ち外敵を駆逐して、繁殖していった。その結果、繁殖による集団の拡大→分化を繰り返した人類に、ようやく同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始める。とは言え採集部族や狩猟部族は、互いに贈物etc.を通じて友好関係の構築に努め、闘争を回避していた。<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=1&t=8#02">実現論</a>

約１万年前には､モンゴロイドはすでに、スンダランドから南米南端のパタゴニアまで移動を終えていました。また縄文時代の日本列島や朝鮮半島や沿海州だけでも、驚くほどの長距離を超えて人や文物の交流があったようです。

　　<img alt="%EF%BD%BD%EF%BE%9D%EF%BE%80%EF%BE%9E%EF%BE%97%EF%BE%9D%EF%BE%84%EF%BE%9E.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%EF%BD%BD%EF%BE%9D%EF%BE%80%EF%BE%9E%EF%BE%97%EF%BE%9D%EF%BE%84%EF%BE%9E.jpg" width="465" height="273" />


<span style="background:#C8FFFF"><span style="color:#6666ff;">初めて出会う同類他部族の集団や人口増加のために一定の地域に拡散した部族間には、人類が始めて経験する同類緊張圧力が生じたはずです。</span></span></blockquote>

<blockquote>縄文時代、青森県の三内丸山遺跡では、100人から500人と推定される大集落が1000年以上営まれました。またその周辺には、同時代の多数の集落遺跡群が見られます。通常の単位集団の限界を超えると思われる定住人口や周辺の集落群からこれは、同類緊張圧力に対応するための多段階編成集落でなかったかと採取時代板では考えられています。

三内丸山遺跡には、北海道十勝の黒曜石による石器や能登半島の翡翠などが出土し広範囲な交流を物語っています。

これらの交流は、贈与であったのか交易（交換）であったのかは、決め手がありませんがクラのような「ある時間的間隔をおいてお返しのくる贈物」かもしれません。</blockquote>

<blockquote>採取時代や各地の先住民の中に残っていた、贈与の風習は、もちろん他集団との関係において成り立つもので、かつ贈与には､確実な相手があります。
（贈与と交換（取引）との間には､微妙な隔たりがあるようにも思われます。）

<span style="background:#C8FFFF"><span style="color:#6666ff;">いずれにしろ、弓矢の発明に代表される”闘争（能力）適応”や多段階編成集団などの　”集団（統合）適応”を前提として、外圧が低下した環境下で、集団を維持し、集団間を統合するために贈与や交叉総偶婚といった”共生（取引）適応”原理が発動するのでしょう。</span></span></blockquote>

 :m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216:

どんな集団でも、集団同士が出会えば（近接すれば）緊張が生まれます :m008: 
その緊張関係も、
①自然外圧が低下し人類が繁殖→集団を分割したことでできた、単位集団（同部族）同士の緊張
②繁殖したことで他部族が近接することになり、他部族間での緊張
の２種類があります。

①の緊張関係は（同部族なので）交叉総偶婚をすることで単位集団間の婚姻関係を結び、人の交流で緊張を緩和していました。
②のように他部族になると、部族によって共認内容も変わってくるので人の交流（婚姻）というわけにはいかなかったのでしょう。この場合は、贈与をしあうことで緊張を緩和していたと思われます。

ただ、①②に共通することがあります :D  :m244: 

<span style="background:#FFE3E3"><span style="color:#ff3300;">それは、緊張状態を一番いい状態で回避するには :m052: に頭を使ったことです :m005: 緊張→闘争ではなく、共に生きる＝共生しようと、その方向に適応したのです :m149:  :m025:  :m148: 
縄文時代一貫してこうして適応してきた、そのための手段の一つが”贈与”だったんですね</span></span>

さて、いよいよ次回はこのシリーズ最終回の予定です :m049:  :m049: 
「贈与に何を学ぶべきか！」追求の集大成 :m040: ご期待ください :D  :m022: 
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   <title>宮廷サロンをつくった商人とそれを支えた受領</title>
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   <published>2010-03-11T11:58:36Z</published>
   <updated>2010-03-13T11:08:42Z</updated>
   
   <summary>「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズ７回目です。今回は、平安時代、宮廷サロンの背後構造に迫ります。 前期平安京の人口は、貴族・官人約１万２０００人、職人が１万５０００人、一般市民９万人と算出され、これに実数不明確な奴婢などを加えると、合計１２万人前後～１３万人だと推定されています。米・塩・布などの生活必需品を商う官営市場以外に、武具や錦を扱う民間の市場が現れ、平安中期には、現在も地元のひとや観光客でにぎわう「錦小路市場」の原型が登場。８９４年に遣唐使が廃止され、「主体的外交」として国を閉ざした日本は、外圧を憂う必要もなく、京の都は、活気をきわめます。 一方、中国の東北部、朝鮮半島よりさらに北の旧満州国のあたりに建国された渤海国は、当時、隣国の新羅とは緊張関係にあり、それだけに大唐国や日本との外交を積極的に展開することで、文化的な国家を維持しようとしていました。渤海国からの使節の来訪は、７２７年～９１９年まで、３４回にも及んでいます。 　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「源氏物語絵巻」柏木二　徳川美術館蔵 「源氏物語」の冒頭は、それが書かれた一条朝より約百年前（９００年前後）に時代設定した作品といわれていますが、その当時の交易事情を意識してか、「唐物（からもの）」とよばれる舶来品が多く登場しています。「唐物」とは、中国に限らず朝鮮（渤海国を含む）からの輸入品全般をさす言葉。具体的には、沈香・麝香をはじめとする香料、白檀・紫檀などの木材、蘇芳・丁子といった染料、銅黄・紺青といった顔料、綾や錦といった衣料、瑠璃壺や呉竹。 物語では、「唐物」をいかに多く所有しているかが、権力や文化的性の問題と密接にかかわってきます。特に第一部では、最も価値ある唐物は、光源氏が財力ではなく、その才能と魅力によって獲得したという描かれ方がなされることが多く、光源氏を箔づけようとしている。唐物の質と量は、光源氏の魅力と権力の「喩」として機能しているのです。 源氏物語から１００年下った、１０００年前後の摂関期貴族社会においても中国文化、唐物への憧憬、需要はきわめて高かったといえます。 ところが当時はすでに建前は鎖国。そこで形式的に登場するのが「宋人定」です。 ※宋人定とは・・・宋商人が九州沿岸に来着すると、大宰府が検査を行なう。その内容を見て中央政府が帰化か、追い返すかを裁定する。帰化、交易が許可されると、まず中央から唐物使が派遣され、民間にさきがけて、商客の持ってきたすべての物品を一時的に差し押さえ、朝廷が必要な物品を確保して京へ進上する。残りが民間取引に委ねられた。 貴族たちは独自のルートで唐物を入手しましたが、形の上では、天皇＝国家による買い上げが中心。貿易統制の場として、大宰府とその長官は実質的に大きな機能を果たすことになります。 国は閉ざした、にもかかわらず国をあげて私的交易を支援した。ここに、公然と認められた市場の抜け道がつくられます。 平安の中央貴族が、これらの貴重品・ぜいたく品を望んだのは、外圧のない成熟社会の必然構造ともいえますが、より実体的には、自分の娘を少しでも上の貴族（その最高位は天皇）に嫁がせるためには、十二単で着飾らせ、唐物を持たせ、清少納言や紫式部のような優秀な女官を身の回りに置く必要があった、ということでしょう。つまり、男をひきつけるため、挑発するためには性の幻想価値を演出する必要があった。逆に言えば、そこまでの資力がなければ中枢貴族として君臨できなかった、ということです。 では、その実現基盤＝お金の出処はどこでしょうか？ 後半に入る前に、応援、よろしくお願いします。    ...</summary>
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      <![CDATA[「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズ７回目です。今回は、平安時代、宮廷サロンの背後構造に迫ります。

前期平安京の人口は、貴族・官人約１万２０００人、職人が１万５０００人、一般市民９万人と算出され、これに実数不明確な奴婢などを加えると、合計１２万人前後～１３万人だと推定されています。米・塩・布などの生活必需品を商う官営市場以外に、武具や錦を扱う民間の市場が現れ、平安中期には、現在も地元のひとや観光客でにぎわう「錦小路市場」の原型が登場。８９４年に遣唐使が廃止され、「主体的外交」として国を閉ざした日本は、外圧を憂う必要もなく、京の都は、活気をきわめます。

一方、中国の東北部、朝鮮半島よりさらに北の旧満州国のあたりに建国された渤海国は、当時、隣国の新羅とは緊張関係にあり、それだけに大唐国や日本との外交を積極的に展開することで、文化的な国家を維持しようとしていました。渤海国からの使節の来訪は、７２７年～９１９年まで、３４回にも及んでいます。

　　　　　　　　<img alt="%25E6%25BA%2590%25E6%25B0%258F%25E7%2589%25A9%25E8%25AA%259E.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%25E6%25BA%2590%25E6%25B0%258F%25E7%2589%25A9%25E8%25AA%259E.jpg" width="410" height="230" />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「源氏物語絵巻」柏木二　徳川美術館蔵

「源氏物語」の冒頭は、それが書かれた一条朝より約百年前（９００年前後）に時代設定した作品といわれていますが、その当時の交易事情を意識してか、「唐物（からもの）」とよばれる舶来品が多く登場しています。「唐物」とは、中国に限らず朝鮮（渤海国を含む）からの輸入品全般をさす言葉。具体的には、沈香・麝香をはじめとする香料、白檀・紫檀などの木材、蘇芳・丁子といった染料、銅黄・紺青といった顔料、綾や錦といった衣料、瑠璃壺や呉竹。

物語では、「唐物」をいかに多く所有しているかが、権力や文化的性の問題と密接にかかわってきます。特に第一部では、最も価値ある唐物は、光源氏が財力ではなく、その才能と魅力によって獲得したという描かれ方がなされることが多く、光源氏を箔づけようとしている。唐物の質と量は、光源氏の魅力と権力の「喩」として機能しているのです。

源氏物語から１００年下った、１０００年前後の摂関期貴族社会においても中国文化、唐物への憧憬、需要はきわめて高かったといえます。

ところが当時はすでに建前は鎖国。そこで形式的に登場するのが「宋人定」です。

※宋人定とは・・・宋商人が九州沿岸に来着すると、大宰府が検査を行なう。その内容を見て中央政府が帰化か、追い返すかを裁定する。帰化、交易が許可されると、まず中央から唐物使が派遣され、民間にさきがけて、商客の持ってきたすべての物品を一時的に差し押さえ、朝廷が必要な物品を確保して京へ進上する。残りが民間取引に委ねられた。

貴族たちは独自のルートで唐物を入手しましたが、形の上では、天皇＝国家による買い上げが中心。貿易統制の場として、大宰府とその長官は実質的に大きな機能を果たすことになります。 国は閉ざした、にもかかわらず国をあげて私的交易を支援した。ここに、公然と認められた市場の抜け道がつくられます。

平安の中央貴族が、これらの貴重品・ぜいたく品を望んだのは、外圧のない成熟社会の必然構造ともいえますが、より実体的には、自分の娘を少しでも上の貴族（その最高位は天皇）に嫁がせるためには、十二単で着飾らせ、唐物を持たせ、清少納言や紫式部のような優秀な女官を身の回りに置く必要があった、ということでしょう。つまり、男をひきつけるため、挑発するためには性の幻想価値を演出する必要があった。逆に言えば、そこまでの資力がなければ中枢貴族として君臨できなかった、ということです。

では、その実現基盤＝お金の出処はどこでしょうか？

後半に入る前に、応援、よろしくお願いします。

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      <![CDATA[地方諸国＝国府は、毎年の春先、国内の百姓＝農業経営者たちに対して１年間の農業経営の原資となる米を貸し付け、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と３割ほどの利息を回収するという制度がありました。こうした公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えますが、実体はそうではありません。

これは借り手の意志を無視した強制的な融資であり、百姓たちは、たとえ経営の原資に困っていなくても毎年必ず国府からの融資を受けなければなりませんでした。そして、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。つまり、王朝時代の国府が行っていたのは、融資の体裁を借りた課税でしかなかったのです。国家あげての不当課税の登場です。中央から派遣された国司、受領たちは、それに乗じるように、不当徴税、恐喝および詐欺、公費横領、恐喝および詐欺の黙認。やりたい放題がエスカレートしていきます。

　　　　　　　　　　　　　　　　　<img alt="2009041216141368c.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2009041216141368c.jpg" width="550" height="330" />
画像は<a href="http://sukebei.blog111.fc2.com/blog-entry-233.html">こちら</a>からお借りしました。

王朝時代において、五位以上の貴族は昇殿が許されましたが、受領は五位止まりの中・下級貴族。当時、昇進は、氏（≒家柄、出自）により制限されていることから、上流貴族（中央の中枢）への道は閉ざされていました。彼らにとって、地方とはいえ、相当の裁量が任された受領国司という地位は、魅力に映ったでしょうし、私腹を肥やすとだけでなく、時の権門に擦り寄るチャンスでもあったのです。

摂関家は、有能な受領を家司に組織して、彼らの財力をもって奉仕させました。特に、豊かな要国の受領には院宮権門自らの家司を任じ、その財力を取り込むことが多くありました。受領の側でも多くの受領を歴任するには権力者の意を迎えることは不可欠でした。なんといっても、受領の人事権は、貴族連合である公卿全体が握っており、最終決定は天皇と摂関家によってなされていたからです。

ここに、上流貴族と受領国司との癒着、取引が成立します。

国家財政は諸国の正税を財源とする方向にすすみ、受領との個別交渉へと、律令国家財政の中央集権的特色は分散化に向かいます。貴族は任官希望者から任料を受領して推薦して任官させたので、一種の売官制度でもありました。

以上をまとめると―。

<span style="color:#ff3300;">外圧がゆるむと、国としての課題がなくなり、関心が私権獲得に向かう＝民需増大、直接的にはお金と女の価値が暴騰。その幻想価値を高めるために市場が拡大し、国を閉ざしたのにもかかわらず、私的交易を国が支援するという抜け道がつくられる。そして、その最大消費者としての上流階級を金銭面で支えたのは、受領から迂回される不正徴税、貢ぎ、賄賂。</span>

私権時代の普遍構造が取り出せます。清少納言も紫式部も受領階級出身。貴族と受領の取引は財貨だけでなく、人身売買・人身御供にまで及んでいたとみることもでき、その意味では、現代より過激、といえるかもしれません。宮廷サロン・王朝文化は表面的には優雅に映りますが、実は、汚職と腐敗と徹底した搾取に支えられた時代で、政治は地方から乱れ、やがては中央も断末魔を迎えます。

院政期、日本史上最大の「政と性の退廃・乱倫」を経て、新しい政治体制が生まれます。言うまでもなく武士の台頭、幕藩体制の登場。次回は、そこから始めます。

うらら
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   <title>王権の生産（本論）</title>
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   <published>2010-03-07T01:27:02Z</published>
   <updated>2010-03-08T12:40:28Z</updated>
   
   <summary>こんにちは～♪ 『王権の生産シリーズ』パート２です 前回は、天皇家の存在意義について、という問題提起と 今回のテーマの序論を書いてみました。 今回からぼちぼち『心理』についても触れていきますが、 これにはもちろん個人差があり、「大抵は～」といった 全体像と捉えてくださいね。よろしくお願いします♪   ...</summary>
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         <category term="弥生ー律令時代の国造り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんにちは～♪
『王権の生産シリーズ』パート２です
前回は、天皇家の存在意義について、という問題提起と
今回のテーマの序論を書いてみました。
今回からぼちぼち『心理』についても触れていきますが、
これにはもちろん個人差があり、「大抵は～」といった
全体像と捉えてくださいね。よろしくお願いします♪

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<span style="color:#009933;"></span>]]>
      <![CDATA[<strong><span style="color:#ff3300;">共通課題になった王の生産（本論）</span>
</strong>

<img alt="eyes0202.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/ pic/eyes0202.jpg" width="320" height="213" />

　岩宿時代を経て、縄文時代に入った列島の人々も、長い年月の間に、より進歩した技術を獲得し、社会を形成してきたわけです。ここでパーソナリティーと思考について少し触れておきたいと思います。
<span style="color:#009933;">　パーソナリティーは、大きくわけて『気質』と『環境』によって作り上げられるものです。そしてパーソナリティーの先に思考があります。
　人は、見聞きしたり、直接経験したことから学習をします。つまり『環境』です。言い換えれば、学習歴のないものに対しては、思考も発生しないということです。</span>
　それでは、縄文時代の末期はどうだったでしょう。初期段階とは比較できないほどの学習をし、思考の幅も広がっていたはずです。良いも悪いも無い、単なる知識の習得です。

　さて、この段階で渡来民によって稲作文化がもたらされました。全く未知のものに対しては、警戒と期待をするでしょう。恐らく渡来民は、警戒をやわらげるために、友好的に、あるいは同化しながら縄文文化に稲作という種を植え付けたはずです。そしてこの稲作文化は、『蓄積しうる富』であると、ささやき続ければよかったわけです。いわゆる『私権文化』ですが、稲作があっという間に伝播したことを考えれば、縄文人の全体的なパーソナリティーも、これが受け入れ可能な状態にあり、『富の蓄積』という思考に辿り着いたということになるでしょう。

　さて、 列島各地に出現した大小様々なクニと、それを率いる首長。いわゆる倭国大乱と言われる時代がやってきます。けれど、大乱に突入する以前から各地で小競り合いや、縄張り争いはおこなわれていたでしょう。そこで勝者が敗者を飲み込み、支配地や富の拡充を図りながら、同時にクニの内部にも階層ができ、支配の構造ができあがっていたはずです。クニを構成する多くの民は、支配を受けながらも、自分達の身の安全と暮らしそのものを維持するために、他の勢力に倒されることなく、所属するクニの安定的な存続を望んだはずです。戦いに負けるということは、単に首長が別の人に代わるだけでは無いということを、既に見聞きして学んでいた、またはその恐怖を支配者によって植え付けられていたと考えられるからです。

　本格的な覇権争いが大乱となり、クニの質的・量的な再編成が繰り返されると、やがてこれを収めるための方法を考えだすようになります。どんな形で収束されるのがベストなのかと…
　それでは、王の出現の前に、そもそも「王権とは何か」について触れておきたいと思います。遠山氏は王権にこのような定義をつけています。

<span style="color:#009933;">＊	王権とは、狭義においては、王という特別な人格に期待され、集中されたところの権力そのものと見なすべきであろう。他方広義には、そうした権力を行使する個人・集団や、その権力を支える組織をも指すと考えられる。だが厳密には、王という特定の人物の人格に体現された権力そのものが王権なのである。＊	王権とは、狭義においては、王という特別な人格に期待され、集中されたところの権力そのものと見なすべきであろう。他方広義には、そうした権力を行使する個人・集団や、その権力を支える組織をも指すと考えられる。だが厳密には、王という特定の人物の人格に体現された権力そのものが王権なのである。　＊</span>（遠山美都男著・大化改新より）

　各クニの首長たちは、制圧するか、滅びるかの二者択一の戦争ではなく、その時点においての勢力基盤を維持しつつ戦争を回避する、連合体という道を模索し始めました。その連合体が機能するためには、連合を統一するための最高首長の存在が必要で、それ無くしては限りなく緊張状態が続くと考えたのでしょう。王の出現としては、極めて稀な手順です。

　<span style="color:#009933;">　つまりこの国の王は、それぞれに思惑を含みながらも、首長層の合意によってつくりあげられた存在というわけです。</span>
　この収束の仕方、黒か白かではなく、その境界をあいまいにしたまま白に近い、あるいは黒に近いグレーという『落としどころ』の選択。これこそは、冒頭述べた縄文時代から引き継いでいるパーソナリティーの『気質』と言えるのではないでしょうか。そしてここに王の存在をもって、あいまいさに形を付けることができるわけです。『気質』というのは脳科学の分野であり、そのアプローチと解明が期待されるところです。

　最高首長、つまり王の選出は、やはり当時の勢力範囲が広く、権力基盤が強固なクニの首長をその任に当たらせる以外に方法が無かったと考えられます。この王を中心にした連合体の出現で、当面の危機から脱出することが可能になったのでしょう。この連合体自体は、いつ壊されるかも知れないという潜在的な危険をはらんでいましたが、当面は、共通の課題である、連合体に属さない強力な勢力の制圧に動いたのではないかと考えます。
　連合体に属した鉄を持つ巨大勢力のひとつ、吉備が単独では制圧できなかった、もうひとつの鉄の生産地出雲の存在は、解決必至な問題であったはずです。単独勢力では制圧不可能であった出雲は、結局『出雲大社』の建立という、尊厳の象徴と引き換えに連合体に服従することになります。
　この出雲大社によって決定付けられる『出雲神話』は、後の時代に、豪族によって大いに利用されることになりますが、当時は、連合体内部での鉄の分配量が、より大きくなったという点が重要だったという事は、容易に想像できます。
　それではここで、完全に被支配者となったいわゆる庶民について、目を転じてみようと思います。
　
　大乱によって生き残った人達は大きく二分されます。比較的被害の少なかったクニに属していた人達と、被害の大きかったクニに属した人達です。前者に属した者は、「自分達とは無縁の力によって支配されている」そんな認識を持ったのでしょうか。むしろ、自分が属するクニが優位性を保ち、安心して生活することができると喜んだ可能性があります。更に、自分や、家族に対して物事を命令する人の指示に従えば、うまくいくし、努力が形となって認められれば、更に良いくらしができると学習してしまったとも考えられます。
　一方で、命こそ落とさなかったものの、後者のクニに属した者はどうでしょう。あらゆるものが奪われ（家族も含めて）、恐怖と無力感に陥ったと考えられます。誰ひとり治療法を知らない、いわゆるＰＴＳＤ（心的外傷ストレス障害）です。そしてこのＰＴＳＤを負った人達が行き着いた先は、奴隷という存在だったのではないかと思われます。
　戦乱を収めるために連合体をつくりあげた列島の古代社会は、同時に王から奴隷に至るまでの社会的階層を生み出したとわたしは考えます。それでも、血で血を洗う戦争を繰り返すよりは賢明な選択であったと、言えるのではないでしょうか。

<span style="color:#6666ff;">縄文から引き継いだ気質と、この時点で彼らにとって学習済みの知識をもっての思考レベルを考える時、この選択は評価できるものとわたしは思います。</span>

　次回は、王であることの正当性をどのようにして示したのか、について考えてみたいと思います。
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   <title>私権文明を問い直す　シリーズ6  私婚関係から私権の共認へ</title>
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   <published>2010-03-06T03:42:49Z</published>
   <updated>2010-03-06T11:57:31Z</updated>
   
   <summary>そもそも「権力」はどこから生まれたのでしょうか？ 学校では、富が蓄積され、持つ者、持たざる者が生まれたことから「権力」が生まれたと習ったように記憶しています。 　しかし、なんで持つ者持たざる者が生まれるのか考えて見るとどうも腑に落ちません。インカ帝国などでは、耕地は、王から与えられた物で、そこで生産される物は王の物であり、そこから生活に必要な生産物を分け与えられているというような意識だったかと思います。 通常、共同体社会であれば、土地から生み出された物は、皆の物（or王の物）であり、私有物では無かったと思います。個人が私有し貧富の差が出るというのは、現代的（私権時代的）発想ですよね。 そこで、「権力」の原点について、「るいネット」からの引用を紹介し、少し踏みとどまって追求してみたいと思います。  ...</summary>
   <author>
      <name>hiroshi</name>
      
   </author>
         <category term="ⅩⅠエトセトラ（その他諸々）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[そもそも<span style="color:#ff3300;">「権力」</span>はどこから生まれたのでしょうか？
学校では、<span style="color:#FFAE35;">富が蓄積され、持つ者、持たざる者が生まれたことから「権力」が生まれたと</span>習ったように記憶しています。
　しかし、なんで持つ者持たざる者が生まれるのか考えて見るとどうも腑に落ちません。インカ帝国などでは、耕地は、王から与えられた物で、そこで生産される物は王の物であり、そこから生活に必要な生産物を分け与えられているというような意識だったかと思います。
通常、<span style="color:#ff3300;">共同体社会であれば、土地から生み出された物は、皆の物（or王の物）であり、私有物では無かったと</span>思います。個人が私有し貧富の差が出るというのは、現代的（私権時代的）発想ですよね。
そこで<span style="color:#FFAE35;">、「権力」</span>の原点について、「るいネット」からの引用を紹介し、少し踏みとどまって追求してみたいと思います。<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a> <a href="http://history.blogmura.com/in/023841.html" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a> ]]>
      <![CDATA[<img alt="%E2%91%A0%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%A9.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E2%91%A0%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%A9.jpg" width="400" height="394" />
<blockquote>権力とは、否も応も無く人々を従わせることのできる力であるとすれば、<span style="color:#FFAE35;">女の性資本（性的商品価値）や選択権</span>は、紛れもなく男たちを否応なく従わせることのできる<span style="color:#ff3300;">権力＝性権力</span>であり、この権力を共認した以上、全ての男は否応なく女（性権力）に迎合せざるを得なくなる。この<span style="color:#FFAE35;">女の性権（性資本）こそ私権の原点を成すもの</span>である。もちろん、人々を否応無く従わせることの出来るもう一つの権力＝男たちの武力との力関係によって、必ずしも常に性権力が絶対者に成る訳ではない。しかし、<span style="color:#ff3300;">男たちが解脱（性）収束を強めてゆくにつれ、性権力は武力をも凌ぐ力を持つ様になってゆくのである</span>。</blockquote>  　 

なるほど、女の性資本が権力の原点。男が女を求める限り、女に振り回されるという現代の恋愛事情とも合致します。大昔からこの事実は否定しようがありません。

<blockquote>　決定的だったのは、勝ち進んできた掠奪部族が、最後に豊かな土地を手に入れ、農耕部族（小国家）に転身していった局面である。そこでは当初、土地は部族の共有物（＝王の占有物）であり、（元）将や兵は役割分担として夫々の土地を管理しor 自ら農耕に当たっていた。しかし、各土地毎の役割分担は、忽ち管理者たちの<span style="color:#FFAE35;">占用権→占有権</span>に変質してゆく。だが、闘争存在≒集団存在たる男たちだけなら、あくまでも役割分担として（必要なら配置替え=土地替えを行って）統合することも出来た筈であり（それが出来れば、その方が集団統合力は強くなる）、それが出来ずに占有権に変質していったのは、闘争＝集団共認とは全く別の（むしろ、集団統合に対する遠心力・分解力ともなる）<span style="color:#ff3300;">私的な男女解脱共認が強く働いた結果</span>である。  　 
 　 　 
　もともと反（闘争）集団性が強く生殖⇒安定志向の強い女たちは、性を武器に己の存在権を安定確保すべく、私有要求を強めてゆく。他方、男たちは女の性権力に迎合せざるを得ず、従ってその要求にも迎合せざるを得ない。しかもそれは、女の期待に男が応える男女解脱共認の形となる。かくして、<span style="color:#FFAE35;">性権力に主導された男女解脱共認を通じて女たちの私有要求が貫徹された結果、占有権の共認が形成された。</span>しかも、その<span style="color:#ff3300;">私有要求⇒占有権の共認は雌雄解脱共認に基づくものであるが故に、社会の最基底の共認と成って確立されていった。</span>但し、武力に基づく占有力そのものは闘って得られる男原理の力であり、それを占有権に換骨奪胎したのが性権力を武器とする女原理である。男は力、女は権、この男と女のせめぎ合いが、私権社会の在り様を、根底的に規定している。</blockquote>

　この辺は、現代家庭で、奥さんが旦那になんとか持ち家や分譲マンションを買わせようという魂胆と重なり合いますね。女は、あくまでも安定基盤を土地や家に求めるわけです。男は、仕事で突破して（闘うことによって）、安定を手に入れるという意識が強いので、集団の役割を全うし、闘っていれば、土地を私有したいという欲はあまり出てこないのかもしれません。

<blockquote>　私的な男女解脱共認を最基底の社会共認とし、その私的な婚姻関係を基底単位とする以上、私権（性権→占有権）に基づく私的婚姻＝私有婚が社会の基底的な制度として共認されてゆくのは必然である。かくして、元々の遊牧部族の勇士嫁取り婚は、農耕に転身して以降は、私権（占有権）に基づく一夫多妻制へと変質していく。そして、戦争が無くなり戦死する男がいなくなると、世代交代の度に（解脱収束し性欠乏が肥大した）息子たちに土地を分割して与えざるを得ず、土地が小さくなると多数の妻を養うことができなくなる。従って、土地占有権に基づく一夫多妻制は、世代交代の度に土地が細分割されて、必然的にかつ急速に（３～４世代で）、一夫一妻制＝一対婚に移行してゆく。更に、それ以上小さく分割できなくなると、次男以下は嫁をもらえなくなっていった。（<span style="color:#FFAE35;">農耕に転じなかった遊牧部族が一夫多妻のままであるのに較べて、農耕国家の一夫一妻は対象的に見えるが、どちらも私権に基づく私有婚、つまり、男が女を買い取り私有するという婚姻制の本質は同じである。）</span>この、多妻から一妻への移行は、女の自我（独占欲）と性権力（好き嫌い、選択権）を決定的に増大させて終う。この様な女の性権力の肥大期が、小国家（都市国家）の成立前後から統一国家（巨大帝国）の支配秩序が確立されるまで、三〇〇〇年から二〇〇〇年もの間、続いたのである。（注：日本人は、この様な時期を、殆ど経験していない。）  </blockquote>

こう見ていくと、権力の原点にかなり迫れたと思いませんか？そして日本が世界の中では、私婚による男女解脱共認の影響が欧米諸国と比べ少ないということも理解できます。これは、今後の社会において一つの可能性だと思えてきました。


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   <title>「贈与」に何を学ぶべきか！～７．贈与の意義とは・・・</title>
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   <published>2010-03-05T03:15:31Z</published>
   <updated>2010-03-05T05:59:23Z</updated>
   
   <summary>こんにちは。最近では、すっかり贈与気分のカッピカピです。 :D   これまでの贈与シリーズの記事で、贈与の実態が、おぼろげながら見えてきたのではないかと思います。簡単にまとめると、生存圧力の低下よって引き起こされた、人口増加と生存域の拡大が、同類緊張圧力を生み出し、それによる同類間の闘争を回避するために贈与というシステムが発生した、となります。:m034:  :m034:  そこで、第７回では、この贈与の意義を、再度固定する意味で非常に参考になる投稿を、るいネットの記事から紹介したいと思います。 :m041:  応援クリックお願いします :m022:  :m022:   　　...</summary>
   <author>
      <name>hi-ro</name>
      
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         <category term="縄文人の外圧" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんにちは。最近では、すっかり贈与気分のカッピカピです。 :D  

これまでの贈与シリーズの記事で、贈与の実態が、おぼろげながら見えてきたのではないかと思います。簡単にまとめると、生存圧力の低下よって引き起こされた、人口増加と生存域の拡大が、同類緊張圧力を生み出し、それによる同類間の闘争を回避するために贈与というシステムが発生した、となります。:m034:  :m034: 

そこで、第７回では、この贈与の意義を、再度固定する意味で非常に参考になる投稿を、るいネットの記事から紹介したいと思います。 :m041: 

応援クリックお願いします :m022:  :m022: 
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      <![CDATA[それでは、るいネットより「<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=29463">贈与の意義</a>｣を紹介します :m034:   

:m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216: 


<blockquote>
＞ポトラッチ自体の目的や在り方も地域や時代によって変化してきており、観察者によっても解釈が様々です（岡本さん）

そのようですね。ポトラッチに類似のものとして、東南アジアに広く広がる「勲功祭宴」というものもあるようです。一生懸命に育て上げた家畜を食べ散らかして捨ててしまうとか、貯めこんだものを一挙に使ってしまう（＝蕩尽する）というようなばかげた無駄な行為こそが、実は人間にとっての基本的な行為であり、人間はそこに根源的な喜びを感じるとする考え方もあります。とはいえ、ポトラッチは「競覇型の全体的給付」や「顕示的消費」などとも呼ばれ、少し特殊な形態と考えられます。そこで、「贈与」ということを、もう少し一般的に見ておきたいと思います。
</blockquote>

<blockquote>
<strong>　<span style="font-size:130%;">　<span style="color:#6666ff;">●物々交換はなかった</span>　</span>　</strong>

<span style="color:#000080;"><span style="background:#FFFFA4">物々交換から必然的に貨幣経済、そしてそれを媒介とする市場社会が、生まれたというのが従来の経済学のストーリーでしょうが、人類学者は、古代の歴史上「物々交換」が行われたことはない、と考えています。</span></span>経済学が「物々交換」ととらえたものは、実は「贈与の交換」なのだ、というわけです。「物々交換」という概念自体、近代が生み出した神話なのです。マルセル・モースがこのことに初めて着目しました。彼は、「未開」と呼ばれている社会で、物のやり取りが贈り物として行なわれており、それを通して魂を交換しているということを発見しました。
　
彼の説では、贈り物には持ち主の魂が宿っているので、放置しておけば、受け手は贈り主の魂に支配されてしまうので、それを祓わなければならないというのです。贈り物には、お返しをしなければならず、これを「対抗贈与」といいます。これが繰り返されてエスカレートしたのがポトラッチです。どちらかがこれ以上贈り物はできない状態に成った時、贈与のできなくなった側が相手に権威を認めるわけです。<span style="color:#000080;"><span style="background:#FFFFA4">しかし、権威を持った者のほうには、何の富も残っていません。権威と引き換えに、富は分配されてしまい、結果として社会は平等になり、「一気に略奪闘争→武力支配国家へと進展するのを押しとどめていた」（岡本さん）ということになるのです。これは偶然そうなった、というより、彼らの「潜在思念的」な知恵によるもの、と言っていいのかもしれませんね。</span></span> 
</blockquote>

<blockquote>
<strong>　<span style="font-size:130%;">　<span style="color:#6666ff;">●贈与の交換は自己目的</span>　</span>　</strong>

社会学では、社会関係を手段的であるか、目的的であるかによって分類します。それに従えば、経済的な交換は手段的であり、社会的な交換は目的的であるということになります。全ての伝統的な社会における交換の原理には互恵性（もらったものは返す）があり、基本的には同等のものを返します。しかし実際に行われている交換には経済的・社会的両方の要素が混じっています。だから、先に述べた分類は、あくまでも純粋な形として考えた「理念型的」な分類ということになります。ただ、歴史的に見ると、近代市民社会以前の社会では、市場交換よりもむしろ「互酬」や「贈与」そして「再配分」（構成員から貢ぎ物を集めて、それを貧しい人に与える）の要素が強く、さらに遡るほど、社会的な交換の理念型に接近すると思われます。

受けたものは必ず返す。できればもらったものより良いものを返す、したがって、交換によって利得はない、というわけで、交換すること自体が目的であり、交換されたものを利用する、という点は第一義的な価値をもっていません。これに対して、経済的交換では、まず必要を満たすことに目的があると考えられます。必要を満たすために交易が始まり、やがて交易によって利益を得るようになっていきます。<span style="color:#000080;"><span style="background:#FFFFA4">縄文期終盤には経済的交換の端緒が形成されつつあった、という議論はありますが、戦争の有無の議論と同様、証拠に乏しく、大きくは「互酬的な贈与の交換」の範疇に納まるとみてよいでしょう。</span></span>
</blockquote>


<blockquote>
<strong>　<span style="font-size:130%;">　<span style="color:#6666ff;">●クラ交易（交換）</span>　</span>　</strong>

何の意味があるのかよくわからないものを、毎年、命がけで交換しあっているのが、南太平洋トロブリアント諸島で行われているクラ交易です。14701 （「クラ交易」の贈り物）で、岡本さんが触れられたとおり、この群島では、赤い貝の首飾りと白い貝の首飾りの交換を続けます。交換には一定の回り方があり、受け取った方は自分の受けたものよりもより良い者を次に回さなくてはなりません。彼らはそのために船を造り、命がけの航海に出かけます。クラ交易は儀式的で、相手にわたすときに一定のストーリーを唱えることになっていますが、贈り物の交換には大きな意義（＝威信）があります。<span style="color:#000080;"><span style="background:#FFFFA4">首飾りは価値があるから交換するのではなく、苦労して贈与するから価値があるのです。</span></span>
</blockquote>

<img alt="%E3%82%AF%E3%83%A9%E8%B2%BF%E6%98%93.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%82%AF%E3%83%A9%E8%B2%BF%E6%98%93.jpg" width="400" height="240" />

<blockquote>
マリノフスキーが「そのかげに隠れて、これと関連した二次的な活動や特徴がたくさんあることを私は発見した。つまり、腕輪と首飾りの儀礼的な交換と並んで、原住民は通常の交易を行う。」と述べているように、社会的交換の上に経済的交換が上塗りされてはいますが、ベースは互酬的贈与でしょう。<span style="color:red"><b>贈与は、われわれが思っている以上に人間にとって基本的な行為であり、それは、より包括的な文化のネットワークの中に人々を組織し、その中で本源的で祝祭的なパトス的生を保障する聖なる儀式だと言えるかもしれません。</b></span> 
</blockquote>

:m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216: 　 :m217: 　 :m218: 　 :m219: 　 :m215: 　 :m216: 


 :confused: ・・・・ :P  :m244: 

　冒頭で書いたように、贈与は、同類間の緊張圧力の緩和、つまり闘争回避のために生まれた行為です。そしてそれは、人口増加と生存域の拡大から発生した同類緊張圧力という、今まで人類が遭遇したことのない、まったく新しい外圧＝先端課題に対する『答え』でもあったのです。
 
　同類緊張圧力の最も高まった時期、つまり人口増加のピークを迎えた縄文中期では、温暖化により、木の実の確保が比較的容易であり、狩猟・採集に対する活力は徐々に低下していったと考えられます。そのような時期において、贈与品の製作という、先端課題への取り組みは、縄文社会の人々の活力を上昇させるに最も適した活動だったのではないでしょうか。その視点で捉えると、引用投稿のはじめの段落で紹介されていた「勲功祭宴」も、今まで蓄えてきた財産を一旦無にすることで、強制的に外圧を高め、活力を維持していたと考えることができます。


　<span style="color:#CC6600;">縄文時代の贈与の意義、それはシリーズ開始から書き続けている、同類緊張圧力の高まりからの『闘争回避』と、豊かさによって徐々に失いつつあった縄文人の『活力源』という２つがあるのではないでしょうか。</span>

　引用文中に

<span style="color:red"><b>”贈与は、われわれが思っている以上に人間にとって基本的な行為であり、それは、より包括的な文化のネットワークの中に人々を組織し、その中で本源的で祝祭的なパトス的生を保障する聖なる儀式だと言えるかもしれません。”</b></span>

とあるように、<span style="color:#800080;"><span style="color:#800080;"><strong><span style="background:#FFFFA4">贈与することで、人は本源的な生を全うすることができるのだとすれば、それを活力源にした縄文人が本源性を失わずに、長い間存在し続けられたことも納得できるような気がします。</span></strong></span></span>

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   <title>「私権文明を問い直す」シリーズ５ ～私婚関係から私権の共認へ～</title>
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   <published>2010-03-04T11:34:43Z</published>
   <updated>2010-03-04T13:55:05Z</updated>
   
   <summary> 月を見ているのはお馴染みの「かぐや姫」ですが、帝まで夢中にさせたその力とは？ （図はこちらからお借りしました） 当シリーズ５回目は、前回の「私権文明を問い直す（西洋と東洋）」から、さらにその本質を掘り下げていきます。 シリーズ２回目で、性闘争の顕現＝「５００万年に亙って封印してきたパンドラの箱を開けた」とありますが、ここから掠奪闘争が勃発し、その玉突きによって本源集団が解体されて私権文明が成立した構造が明らかになりました。 ところで、現在、（私権文明の世界では）空気にようなあたりまえのものとして共認されている「私権」とは、いったいどのように成立し、共認されるようになったのか？ 「私権」は、ある日突然誰かが独占を主張してもそれが共認されるハズもなく、私婚関係が（それが社会的に共認された事が）下敷きになってはじめて成立しています。 この構造を、シリーズ２の「性闘争の発現」と、シリーズ３の「本源集団の解体」によって、（原猿以来の）集団の最基底部をなす「男女解脱共認」がどうなったのか？から見ていきます。 今回も、るいネットの「実現論」から引用させていただきます。 by tamura 記事を読むとき↓を押して応援してくださいね。  ...</summary>
   <author>
      <name>nandeya</name>
      
   </author>
         <category term="ⅩⅠエトセトラ（その他諸々）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<img alt="%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB.jpg" width="320" height="240" />
<span style="font-size:80%;">月を見ているのはお馴染みの「かぐや姫」ですが、帝まで夢中にさせたその力とは？
（図は<a href="http://watashi-no.cocolog-nifty.com/jinjin/2007/10/index.html">こちら</a>からお借りしました）</span>


当シリーズ５回目は、前回の<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001015.html">「私権文明を問い直す（西洋と東洋）」</a>から、さらにその本質を掘り下げていきます。

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/01/001006.html">シリーズ２回目</a>で、性闘争の顕現＝「５００万年に亙って封印してきたパンドラの箱を開けた」とありますが、ここから掠奪闘争が勃発し、その玉突きによって本源集団が解体されて私権文明が成立した構造が明らかになりました。

<span style="color:#ff3300;"><strong>ところで、現在、（私権文明の世界では）空気にようなあたりまえのものとして共認されている<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=400&t=8">「私権」</a>とは、いったいどのように成立し、共認されるようになったのか？

「私権」は、ある日突然誰かが独占を主張してもそれが共認されるハズもなく、私婚関係が（それが社会的に共認された事が）下敷きになってはじめて成立しています。</strong></span>

この構造を、<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/01/001006.html">シリーズ２</a>の「性闘争の発現」と、<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001008.html">シリーズ３</a>の「本源集団の解体」によって、（原猿以来の）集団の最基底部をなす「男女解脱共認」がどうなったのか？から見ていきます。
今回も、るいネットの<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=2&t=0">「実現論」</a>から引用させていただきます。
by tamura

記事を読むとき↓を押して応援してくださいね。
<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a><a href="http://history.blogmura.com/in/023841.html" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a> ]]>
      <![CDATA[<span style="color:#6666ff;"><strong>私婚関係から私権の共認へ</strong></span>
<blockquote>パンドラの箱を開け、性闘争＝縄張り闘争を顕現させて終った以上、そして本源集団を解体し、本源共認を破壊して、モグラの性闘争＝縄張り闘争の本能の次元まで後退して終った以上、人類は原猿と同じく雌雄解脱共認の形成から共認を再構築してゆくしかない。ところが、掠奪闘争によって人類の雌雄関係＝婚姻関係は、一変して終った。
<span style="background:#C8FFFF">本源集団が破壊され、性＝婚姻の相手を定めていた婚姻規範が消滅して終った結果、性＝婚姻は私的な選択に任されることになって終ったのである。</span>
性が、無政府的で本能的な性闘争に任されることに成ったとも言える。</blockquote>
<span style="color:#6666ff;">「本源集団が破壊され・・・性＝婚姻は私的な選択に任されることになってしまった」
という事実は、それが当たり前になっている現代からみれば、新たな気付きです。一旦、善悪は別にして、大転換だったといえます。</span>
<blockquote>しかし、性の私的な選択の場では、男女の性闘争本能の強弱差から、必然的に女の性に強い価値が生じる。しかも、闘いが無くなり生産基盤も安定してくると、男たちは解脱収束を強め、性欠乏を更に肥大させてゆく。他方、私的な婚姻関係は、女の性的自我をますます肥大させてゆく。<span style="background:#C8FFFF">そこで、本源集団＝母系集団という安定した存在基盤を失い、性的自我に収束した女たちは、性を武器にして己の存在権を確保する方向に（つまり自ら性の商人となる方向に）、可能性収束＝性的需要収束してゆく。</span>そして、男たちを挑発しつつ性封鎖（供給制限）して、自分たちの性が「滅多なことでは売れない」「この上なく高価なものである」という性幻想を捏造する。</blockquote>
<span style="color:#6666ff;">上記の性幻想の発生までを図解化してみました。</span>
<strong><span style="font-size:80%;"><span style="color:#6666ff;">男：闘いが無くなり　→　解　脱　収　束→女は性的　⇒　性　幻　想
女：母系集団を失い→　性的自我に収束　→需要収束　　（挑発しつつ供給制限）</span></span></strong>
<blockquote>何しろ女は、自分で自分を「至上のもの」と思い込んだら終いで、男たちは女の思い込みに基づくこの期待に応望しようとすれば、女と同じ様に「至上のものなんだ」と思い込み共認するしかない。こうして、性的商品価値（＝性資本）の共認がいったん形成されると、それを手に入れる為に男は、女の好き嫌いやあれこれの要求にも迎合し、女に合わせて同じ様に思い込み共認してゆくしかなくなる。
しかも、それは<span style="background:#C8FFFF">最基底の男女解脱共認</span>であり、それを覆すことはもはや誰にも出来ない。</blockquote>
<span style="font-size:80%;"><a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=2&t=3">実現論：第二部（私権時代）ハ．「私婚関係から私権の共認へ」</a>より引用しました。</span>

<span style="color:#6666ff;">冒頭の<span style="color:#ff3300;">「かぐや姫」</span>は、数ある求婚者のなかで残った５人の公家の君に対して、指定した珍しい宝物を持ってくるよう要求。５人は奮闘したが失敗（１人は死亡）、かぐや姫は帝と交際するが結局は帝を捨てて月に行ってしまうという平安時代の物語。
物語は、姫のために命を掛ける男たちが極端に描かれているが、<u>性的商品価値の基礎構造（ゆえに全ての男女に当てはまる）を端的に示している。</u>　</span>



<img alt="%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8A.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8A.jpg" width="200" height="150" />
<span style="color:#6666ff;"><span style="font-size:80%;">こちらは蛇足ですが,日本の８０年代末のディスコ（クラブ）の女たち。
ここまでくると「実」も「フタ」もありません。
７０年に貧困が消滅し、解脱欠乏が高まって８０年代には<span style="color:#ff3300;">性権力は暴騰</span>、しかし、その直後に<span style="color:#696969;">失速し、性的商品価値は暴落</span>しました。</span></span>
]]>
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   <title>日本古代市場の魁＝修験道ネットワーク</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/03/001022.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2010:/blog//1.1022</id>
   
   <published>2010-03-02T15:01:19Z</published>
   <updated>2010-03-03T02:56:58Z</updated>
   
   <summary>tanoさんから「縄文ネットワークが古代市場の基盤をなすのでは」という視点が提起されました。他方で、ないとうさんからは「神道ネットワークを基盤とした徴税ネットワーク」が古代市場の基盤とする論考が提起されています。 「海洋民＝縄文ネットワーク」「神道＝徴税ネットワーク」「古代市場」・・・この３つはどのようにつながっているのでしょうか？ この３つの結節点こそ、「没落貴族と反体制海洋民による秘密政治結社＝修験道ネットワーク」ではないでしょうか。今日は、「修験道ネットワークこそ、日本の古代市場の魁」という仮説を考えて見たいと思います。 ↑今回参考とした「役行者―修験道と海人と黄金伝説」前田良一著 日本経済新聞社　刊　※オススメです...</summary>
   <author>
      <name>member</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[tanoさんから「縄文ネットワークが古代市場の基盤をなすのでは」という視点が提起されました。他方で、ないとうさんからは「神道ネットワークを基盤とした徴税ネットワーク」が古代市場の基盤とする論考が提起されています。

<span style="color:#ff3300;">「海洋民＝縄文ネットワーク」「神道＝徴税ネットワーク」「古代市場」・・・この３つはどのようにつながっているのでしょうか？</span>

この３つの結節点こそ、「没落貴族と反体制海洋民による秘密政治結社＝修験道ネットワーク」ではないでしょうか。今日は、「<span style="color:#ff3300;">修験道ネットワークこそ、日本の古代市場の魁」</span>という仮説を考えて見たいと思います。

<img alt="gyoja.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/gyoja.jpg" width="500" height="500" />
↑今回参考とした「<strong>役行者―修験道と海人と黄金伝説</strong>」前田良一著
日本経済新聞社　刊　※オススメです]]>
      <![CDATA[<strong><span style="font-size:130%;">日本の物流網は、どのようにして贈与＝共認原理から市場＝私権原理へと転換していったのか</span></strong>

<span style="color:#ff3300;">「贈与」何を学ぶべきか？シリーズでも提起しているように、縄文ネットワークとは贈与を基盤とした物流ネットワークであり、それがそのままで市場としてのネットワークになる訳ではありません。</span>同じ物流網であっても、「贈与＝共認原理」「市場＝騙しと搾取を方法論とする私権原理」では物流を突き動かしている原理が全く違うのです。

贈与は友好関係の構築を目的とした、多角的なネットワークであるのに対して、市場は武力支配＝力の原理によって構築された序列体制のニッチから、なんとか、私権の旨みを取り出せないかと暗躍する闇世界的な暗躍こそが、その基盤です。

言い換えれば、力の支配→階級社会の成立を前提としない市場関係はありえないのです。<span style="color:#ff3300;">ないとうさんの論考により、日本の場合、本格的な争い→力の支配がなかった代わりに、国家による徴税そのものが「弥生信仰」のベールを纏うという手法によって構築されてきたことが明らかになりました。</span>実も蓋もない言い方をするならば、「稲作の司祭王」としての天皇とは国家権力による徴税を正当化するための道具だてだったのである。

そして、この「自然神への返礼」というベールをまとった徴税ネットワークが平安王朝に富の集積をもたらすと、平安王朝は、源氏物語や竹取物語に代表される、有閑階級が富を散財する一大消費都市となる。国家としては、国を閉ざし、闇商人たちの暗躍を防ごうとしたものの、有閑階級の消費欲が、それを許さない。かくして、<span style="color:#ff3300;">平安王朝の豪奢と性愛は、一方で、徴税システムを強引なものに変えていき、他方で、有閑階級の消費欲を充たすための民間市場をつくりだしていく。</span>
<span style="color:#ff3300;">と同時に「神道＝自然神への祈念」というベールの奥から支配権力の行使という国家＝徴税ネットワークの本質が垣間見える時、人心は離れ、抵抗勢力となるネットワーク構築への企てが動き始める。</span>それは、権力闘争故に必然的に発生する反体制の没落貴族と、同じく体制に納得の行かない人々をつないでいく。

そのような抵抗勢力の闇の政治結社的なネットワークが、他方で、支配階級に蓄積された富を回収するための仕組みとして、先駆的な古代市場は始まった、とみていいのではないだろうか。それを主導したのは、稲作になじめなかった海洋民たちであり、彼らの思想的支柱となったのが、修験道であったのであろう。

<strong><span style="font-size:130%;">以下に、「日本古代市場の魁＝修験道ネットワーク」という仮説根拠を挙げる。</span></strong>

※	<span style="color:#009933;"><span style="color:#009933;">そもそもの修験道の基礎が、新羅の没落貴族たちによる‘花郎集団’に遡ること、彼ら半島出自の没落貴族が西日本と半島を自由に往来する安曇族や宗像氏などの海洋民に手助けされて日本の各地に広がっていったことは「花郎集会と修験の発生にみる共同体の解体過程」で既に述べた。</span></span>http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/12/000673.htmlを参照。勿論、葛城氏、大海人皇子、後醍醐天皇と日本史上、政治体制の重要な局面において、修験の総本山吉野が反体制の拠点として機能してきたことは疑うべくもない。


<span style="color:#009933;">※	修験道→山伏の習俗には彼らの出自が海洋民であることを物語るものがたくさんある。腰に付けたほら貝や鹿皮はその象徴。また修験総本山、吉野には、海洋民である安曇族や隼人族に連なる地名が多数ある。魏志倭人伝に出てくる「伊都国」を思わせる「伊都郡」が五條市の先にあり、そこには奴国王の金印のでた「志賀」を思わせる「志賀」という地名もある。その他にも那賀、海部、オオスミ、阿多、大山祇神、海神社・・と吉野は海洋民の名残を多くとどめている。</span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E6%97%8F.JPG"><img alt="%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E6%97%8F.JPG" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E6%97%8F-thumb.JPG" width="500" height="526" /></a>


<span style="color:#009933;">※	何故、海洋民が山へ上がったのか、については諸説あるが、中央構造線の山間部からとれる朱が船の防腐剤として有効だったから、という説が有力である。船が朱塗りであったことは万葉集の歌謡からも伺える。</span>

<span style="color:#009933;">※	道教は体制思想としての儒教のカウンターカルチャーとして、より旧い祖霊信仰・占いを中心とした宗教であるし、修験道は、八百万の神という縄文的≒海洋民的な信仰の名残を神仏習合という形でとどめている。</span>

<span style="color:#009933;">※	また修験道は、金・銀・水銀等の貴金属の発掘とそれを活用した冶金・製薬そして販売を活動資金としている。これら貴金属を使った仏像や薬品は、豪奢への欠乏に取り付かれた貴族階級を騙して、高く売りつけるには絶好の商品であった。実際、行基は金ピカの大仏を売りつけることに成功したし、役小角が使った妖術の正体とは、医術であり薬の処方であったようだ。</span>

<span style="color:#ff3300;"><span style="color:#ff3300;">このように海洋民＝縄文ネットワークは、徴税ネットワークの登場を契機に、そのアンチテーゼとして没落貴族と反体制海洋民による秘密政治結社＝修験道ネットワークへと修練していった。この修験道ネットワークこそが日本古代市場の魁ではないか。</span></span>

そして、徴税ネットワークに対するアンチテーゼとしての修験道＝市場の拡大という流れは、貴族階級の暴走が加速する中世においては、密教ネットワークへと引き継がれていく。そして海賊を生み出し、民間の海外貿易ネットワーク網へと発展していったのではないだろうか。シリーズ中盤はそのような、平安王朝の豪奢と没落、他方で台頭する市場の住人たちの暗躍を見ていきたい。

尚、タツさんから「‘ポスト近代市場の可能性を日本史に探る’という大テーマのもと、５回までの論考を通読して、“可能性”がまったく見えんのです。」とのお叱りを頂いております。確かに・・・明るい未来は見えてきません。しかし、「主体的外交」や「贈与精神」といった可能性の萌芽は感じます。いましばらく、お付き合い下さい。

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   <title>「贈与」に何を学ぶべきか！～６．捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ</title>
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   <published>2010-02-26T14:45:55Z</published>
   <updated>2010-02-28T21:15:14Z</updated>
   
   <summary> :D くまなです。 前回「贈与」に何を学ぶべきか！～５．ポトラッチの実態の記事で、ポトラッチの風習について紹介しました。今回はポトラッチとは何か、何のために行われているか、です。まずは、これまで云われている諸説の紹介です。 るいネット「捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ」より 　ポトラッチは、縄文人の贈与や弥生の銅鐸を考える上でヒントになりそうです。ただこれまで言われているように、ポトラッチ自体の目的や在り方も地域や時代によって変化してきており、観察者によっても解釈が様々です。「自己の名誉と威信を高めるための贈答説」、「富の集中を防ぐための分配制度説」、「酋長が成員の尊敬を高め結束を強めるための分配制度説」、「余剰物を無くすためのもてなし説」、「複雑で高度な一種の交換経済説」、「一種の闘争回避説」など。 どの説も現象面の解釈に留まっているようです。では、ポトラッチの本質は何なのでしょうか？ その前に、ポチっと応援よろしくお願いします。   ...</summary>
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      <name>kumana</name>
      
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         <category term="縄文人の集団統合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[ :D くまなです。

<img alt="getimage8.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/getimage8.jpg" width="300" height="250" />


前回<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001018.html">「贈与」に何を学ぶべきか！～５．ポトラッチの実態</a>の記事で、ポトラッチの風習について紹介しました。今回はポトラッチとは何か、何のために行われているか、です。まずは、これまで云われている諸説の紹介です。

るいネット「<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=29278">捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ</a>」より

<blockquote>　ポトラッチは、縄文人の贈与や弥生の銅鐸を考える上でヒントになりそうです。ただこれまで言われているように、ポトラッチ自体の目的や在り方も地域や時代によって変化してきており、観察者によっても解釈が様々です。「自己の名誉と威信を高めるための贈答説」、「富の集中を防ぐための分配制度説」、「酋長が成員の尊敬を高め結束を強めるための分配制度説」、「余剰物を無くすためのもてなし説」、「複雑で高度な一種の交換経済説」、「一種の闘争回避説」など。</blockquote>

どの説も現象面の解釈に留まっているようです。では、ポトラッチの本質は何なのでしょうか？

その前に、ポチっと応援よろしくお願いします。
<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a> <a href="http://history.blogmura.com/in/023841.html" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a> ]]>
      <![CDATA[<img alt="getimage.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/getimage.jpg" width="300" height="218" />


るいネット「<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=29278">捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ</a>」より

<blockquote>　ポトラッチの起源が原始にまでさかのぼるなら、神々や精霊への捧げものが原初の姿だったと思われます。何より精霊との期待・応望関係こそが最先端の課題だったはずで、獲物や生殖の恵みを祈って捧げものをし、そして同時に集団の共食の祭りを伴っていったと想定されます。捧げること（＝人間は消費しない、使わないこと）が、次第に貴重品の投棄や破壊という行為につながり、共食の祭りが一種の分配制度のように機能していったと考えられます。</blockquote>

精霊(自然)からの恵みに対する感謝(お礼)が原点にある。豊かになると、自然への畏怖の念から余剰生産＝自然からの過剰な収奪は悪という思い(自制心)が加わる。それが贈与＝喜捨という行為につながる。

<blockquote>　何より決定的なのは同類闘争圧力の高まりであり、これに対する解決策としてこの制度が利用され変質していったと思われます。当初は友好関係維持のための贈与だったものが（精霊への捧げものや同朋間の助け合いが同類他者への贈与へと応用された）、次第に自我・私益意識の増大につれて、しかし武力による殺し合いを回避する方法として、競争的な「浪費・贈答・破壊」合戦へとエスカレートしていった。いわば武力を用いないで相手を倒す戦いへと変質していった。西洋人によって観察される頃には、すでに貴族・平民・奴隷からなる階層社会を形成しているが、一気に略奪闘争→武力支配国家へと進展するのを押しとどめていたのが、この原始の風習の名残を残すポトラッチだったのではないでしょうか。</blockquote>

ポトラッチは贈与という本源的な思い(相手が喜ぶことで充足する)がベースにあります。しかし、おそらく私権時代に入って確立したしくみであると思われます。それは、集団の私権追求→蓄積を抑制するように働いているからです。その前提には各集団が「自集団第一」という価値観を持っている、あるいは、そういう意識に陥りやすいという状況認識があるはずです。

そのような状況で私権追求を放置すると、たとえば部族内で私権の大小により格差が生まれ、力の大小による序列が生まれ、支配・被支配という関係が生まれ、さらに自集団(の私益)第一が高じると争いへと発展していきます。そのようなことが過去に実際に起こり、その教訓から導入された仕組みだと思われます。
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   <title>神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った</title>
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   <published>2010-02-25T14:07:00Z</published>
   <updated>2010-02-26T08:18:58Z</updated>
   
   <summary>『ポスト近代市場の可能性を日本史に探る』 新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます 古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった（前半） 古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった（後半） 古代日本外交史　”主体的”外交への転換 神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った 西欧の市場発達は、11世紀の十字軍遠征から始まった。巨大な戦費、資材運搬から流通路が発達、商人が教会権力、国家権力を超える力を付けていった。 日本においても、ほぼ同じ時期（中世）に市場が発達していく。しかし、それは大規模な戦争を介して成されたものではなかった。平安末期から鎌倉・室町時代に掛けての中世・市場発達の基盤となっていたのが、律令国家の成立だった。全国規模の徴税システムが、各地に富の集積を生み、集積された富を原資にして市場が発達していく。 （引用元：明夜航記） そして、律令国家における巨大徴税システムを可能にしたのが、「神道」だった。...</summary>
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         <category term="弥生ー律令時代の集団統合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<span style="font-size:80%;"><span style="color:#6666ff;"><em>『ポスト近代市場の可能性を日本史に探る』</em>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001007.html">新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001011.html">古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった（前半）</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001012.html">古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった（後半）</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001014.html">古代日本外交史　”主体的”外交への転換</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001020.html">神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った</a></span></span>

西欧の市場発達は、11世紀の十字軍遠征から始まった。巨大な戦費、資材運搬から流通路が発達、商人が教会権力、国家権力を超える力を付けていった。

日本においても、ほぼ同じ時期（中世）に市場が発達していく。しかし、それは大規模な戦争を介して成されたものではなかった。<strong>平安末期から鎌倉・室町時代に掛けての中世・市場発達の基盤となっていたのが、律令国家の成立だった。全国規模の徴税システムが、各地に富の集積を生み、集積された富を原資にして市場が発達していく。</strong>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/photo_2.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/photo_2.html','popup','width=827,height=899,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/photo_2-thumb.jpg" width="400" height="434" alt="" /></a>
（引用元：<a href="http://yumiki.cocolog-nifty.com/nautica/cat21471800/index.html">明夜航記</a>）


<strong>そして、律令国家における巨大徴税システムを可能にしたのが、「神道」だった。</strong>]]>
      <![CDATA[<span style="font-size:130%;">■神社を利用した徴税制度</span>

5世紀後半から突如古墳の規模が縮小し始め、ほぼ同時に神社が各地で設立され始める。祖先祭祀の場＝集団間統合の場が、古墳から神社へと移行していったのだ。（ヤマトから招かれ日本海地方から大王に就いた継体天皇の時期にあたる。東国地方の豪族のバックアップを受けて即位した継体天皇が、伊勢神宮を設立したとも言われている。）　広範な地域を画一的に統治できる神社ネットワークの広がりにより、国内統合がより安定化していった。
そして、大王家を中心とするヤマト王権は、この神社の祭祀とネットワークを利用し、徴税システムを整備し始める。

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/map1.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/map1.html','popup','width=570,height=540,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/map1-thumb.jpg" width="400" height="378" alt="" /></a>


<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/map2.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/map2.html','popup','width=570,height=540,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/map2-thumb.jpg" width="400" height="378" alt="" /></a>
（引用元：<a href="http://jinja.aiai7.net/">神社お参りインフォメーション</a>）

古代においては、豪族（の首長）が支配民から生産物（農産物）を徴収していたが、祭祀を主導する豪族の首長は「初穂」という名目で取り立てていた。

その年の最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この初穂の貢納が、「新嘗祭」という形で神社祭祀に組み込まれる（これがあって初めて、次の年の五穀豊穣を祈る「祈年祭」が成立する）。各神社の「初穂」は、それぞれの神官によって中央に「捧げられる」。こうして、中央から地方へと広がる租税徴収システムの原型ができあがった。

<img alt="niinamesai.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/niinamesai.jpg" width="332" height="200" />
（引用元：<a href="http://hurec.bz/mt/archives/2008/03/867_200801.html">「昭和天皇による新嘗祭」</a>）

神道祭祀をつかさどる神祇官は、豊年祈願の祭りのほか、祈年祭や収穫を祝う新嘗祭を行うにあたって、まず全国の神社の神官を中央に集め、神に捧げ物（幣帛：へいはく）をした。その後、この捧げ物（幣帛）を地方の神官に配る。天皇が稲穂などの幣帛を、穀物の実りをつかさどる神に捧げるからこそ、神の加護を得られ、これを種籾として農耕に励むことで、豊作が約束される。言葉を換えると、捧げ物をしなければ豊作も約束されないわけだ。国家から地方へ広がるこのようなネットワークを通じて、神の霊力を宿した種籾が百姓に配られた。つまり八世紀に完成した神道は、律令制を維持するための宗教という側面を持ち合わせていたのである。

後に豪族の政治・宗教権限がヤマト王権に剥奪されて律令政府が確立されると、初穂は律令政府を代理する国府に納められる田租（でんそ・「租」）へと転換して、後の租庸調制を構成する1つとなった。

（村落）共同体において、未来の集団の危機に備えて、収穫物を備蓄し管理しておくという体制は当然のようにあった。しかし、「”集団を超えて”生産物を集約する」ことには、抵抗感があったに違いない。『何の為に？』かが固定しはっきりできないからだ。
<strong>だから、「”集団を超えて”生産物を集約する」ことを正当化できる観念が必要となる。それが変質した「神道」であり、これは集団を超えた”社会”を統合するための観念でもあった。</strong>


<span style="font-size:130%;">■生産物が集約され、市場の基盤が出来上がる</span>

中央から地方へと広がる神社ネットワーク、あるいは徴税システムが整備され、中央のみならず地方諸国（の倉）にも、一定の生産物が蓄積されていく。神社や諸国の倉に貯蔵された生産物＝米は、「貸し出される」ようになった。これが『出挙』と呼ばれるものである。

最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この蔵の初穂は、次の年、神聖な種籾として農民に貸し出される。収穫期が来ると、農民は蔵から借りた種籾に、若干の神へのお礼の利稲（りとう：利息の稲）をつけて蔵に戻す。この循環が出挙の基本的な原理となる。

律令国家はこれを国家の制度に定着させた（：公出挙）。国衙の蔵に納められた租稲（そとう）が元本になったと考えられており、これを春に農民に貸し付け、秋に利稲を付けて蔵に返される。このような初期金融行為が神のものの貸与、農業生産を外界とした神への返礼として成立していた。

<span style="color:#696969;"><span style="font-size:70%;">※田租（でんそ）と出挙（すいこ）とを合わせて正税と呼ばれる。
田租とは、税金の一種で、口分田の場合は１段につき２束２把というのがもともとの規定で、大まかに言うと収穫高の約３％。
また、出挙は一種の高利貸しで、お金ではなく、稲を貸し付ける。だいたい春と夏の２回、頴稲という穂首刈りした稲を種もみ用に貸し付け、秋の収穫の時に利息分の稲と合わせて収納するというかたちになる。田租のほうは稲穂からはずした稲穀のかたちにして倉に蓄積していく。その倉がいっぱいになると封をした不動倉として、例えば飢饉が起きた時に出して使用するが、もっぱら蓄積されていく。一方、出挙のほうは頴稲のかたちで運営され、その利稲でもって地方の財源にあててられた。 </span></span>

神社ネットワークから、律令制度下での徴税制度の発達、及びそれらの拠点ごとに富が蓄積され、市場発達の基盤が整った。

<strong>西欧や中国では、大規模な戦争によって武力支配国家が成立し、生産財が奪われることで、転覆不可能なほどの圧倒的な富の差が生まれた。日本では大規模な戦争が無かった代わりに強力な中央集権国家が成立した訳ではなかったが、「神社・神道」を利用した緩やかな律令制度により富の蓄積と差異が生まれたことになる。</strong>

そして律令制度及び徴税制度による富の蓄積が、中世・市場発達の基盤となったのである。

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（ないとう）]]>
   </content>
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   <title>王権の生産</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001019.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2010:/blog//1.1019</id>
   
   <published>2010-02-21T22:26:07Z</published>
   <updated>2010-02-22T11:28:19Z</updated>
   
   <summary>こんにちは ♪ ｍｉｌｋｔｅａ　です。 今回初めてシリーズ記事を投稿します。 どこまでやれるかちょっと自信がありませんが、頑張ってみますね (´∀｀★)+.゜ 王権の生産 　何を持って、その人物を王であると定めたのか 　１　共通課題になった王の生産　序論 　２　共通課題になった王の生産　本論　 　３　王の再生産…卑弥呼と古墳の存在理由 　４　複数の王位継承権保持者 　５　生前譲位という王権移行の形 　６　葛城・蘇我・藤原の役割が果たしたこと  　７　まとめ　私見『天皇家の存在意義』 　よろしくお願いします☆   　...</summary>
   <author>
      <name>milktea</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんにちは ♪ ｍｉｌｋｔｅａ　です。
今回初めてシリーズ記事を投稿します。
どこまでやれるかちょっと自信がありませんが、頑張ってみますね (´∀｀★)+.゜

<span style="color:#009933;">王権の生産
　何を持って、その人物を王であると定めたのか</span>

<span style="color:#CC6600;">　１　共通課題になった王の生産　序論
　２　共通課題になった王の生産　本論　
　３　王の再生産…卑弥呼と古墳の存在理由
　４　複数の王位継承権保持者
　５　生前譲位という王権移行の形
　６　葛城・蘇我・藤原の役割が果たしたこと 
　７　まとめ　私見『天皇家の存在意義』
</span>
　よろしくお願いします☆
<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://www.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a>

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]]>
      <![CDATA[はじめに
　この記事を書いている現在、バンクーバーではオリンピック出場選手が必死で頑張っています。よく日本代表選手が「応援席に日の丸を見つけるとほっとする」「ポールにあがった日の丸を見て感無量になった」そんな事を口にします
　日ごろ「日本国」の一員としてこの国をはっきり意識することは少ないのですが、外国に行ったり、他国の文化に触れたりした時に『日本国民』を意識する機会が多いのではないかと思います。ちなみに明日からわたしはロンドンへ行くのですが、<span style="color:#009933;">パスポートによって身元を保証される</span>ということなんでしょうね 

　時代時代でその有り様が違っていた日本の天皇は、現在<span style="color:#ff3300;">『日本国民の象徴』</span>となっています。「象徴っていったい何だろう…はっきりコレって掴めるものじゃないな」そんなふうに思います。でも、テレビで美智子皇后が腰を落として訪問先の人々に笑顔で接している映像などを見ると、正直に「何てステキな笑顔なんだろう」「きっとその場にいた人達は、元気になったのでは？癒されたのでは？」わたしはそんな感想を持ちます。
　とてもあいまいですが、「天皇家の存在が無意識に刷り込まれていること」それが象徴の持つ意味なのかな、と思ったりしています。
　世界一古いとされる天皇家が日本国民の象徴として存在する、これ自体とても不思議なこと、言い換えれば稀なことであるのは事実でしょう。捨てるべきもの、捨ててはいけないもの、取捨選択を迫られたとき、『象徴である天皇』は、捨ててはいけないものという考えを持つ立場から、この稀なことの起こりを考え、天皇家の存在意義についての私見を、明らかにしてみたいと思います。

　上記の各項目について、多くの歴史研究家が諸説発表していますが、ここでは遠山美都男氏の論説をベースに執筆していくことを、はじめにお断りしておきます。引用文章には、文中に出典を付けさせていただきます。また、参考文献は１０冊程度を予定しており、シリーズの最後にまとめて記載いたします。
また、直接当時の人の気持ち、考え方を知るわけにはいきませんが、心理カウンセラーとして、推測とはいえ、その心理を考慮しながら書き進めていきたいと思っています。

<img alt="eyes0295.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/eyes0295.jpg" width="213" height="320" />

<strong>１　共通課題になった王の生産　序論</strong>
　この国に王が誕生する以前、稲作文化が伝播した列島各地ではこんなことが考えられ始めていたのではないでしょうか…

社会を構成する最小集団は家族である。
<span style="color:#696969;">コメ作りは収穫できたときの喜びが大きいけれど、家族だけではとてもとても心もとない。雨は充分に降ってくれるか、お日様は充分か、よそから来た人が、自分達にもコメを作らせてくれと言ったらどうしようか、腕っ節の強い者がケンカを始めるかも知れない、盗っ人がやってきてコメを刈られたらどうしようか…そんな時、隣の家族と、またその隣の家族と、たくさんの家族が仲間になって助け合わなければならないなぁ。そのためには、いろいろな問題を解決してくれる人、言ってみれば「みんなの主」になってくれる人が必要だな・・・。
</span>ムラという共同体とリーダーが誕生した瞬間でしょう。この時点で、リーダーとムラを構成する人達の間に『支配者』『被支配者』という構図は、潜在的に潜んでいたにせよ、当事者間にその認識はまだ無かったと思われます。諸問題を調停、解決する能力を持った人物に共同体を託すことが望まれたからです。そして「これだけの厄介ごとを引き受けてくれる人の意見には従わなければならないだろう」そんな認識が生まれたことも、容易に想像ができると思います。

以上は、まったくの個人的見解ですが、この沿線上に『クニ』『首長』ができていったのではないでしょうか？

<span style="color:#CC6600;">次回は、この『首長層』から『王』の誕生が求められたことについて考えてみたいと思います。</span>]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「贈与」に何を学ぶべきか！～５．ポトラッチの実態</title>
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   <published>2010-02-20T14:45:55Z</published>
   <updated>2010-02-22T08:31:09Z</updated>
   
   <summary> :D くまなです 　 原始時代の物の長距離移動は贈与なのか交易なのか？その議論をする上で重要な事例があります。「ポトラッチ」です。 　   　 これは集団間の贈与の風習で、近代まで続いていました。今回は、そのような風習から、原始時代の物の移動の本質について紐解いくため、まずその風習について紹介します。 　 その前に、ポチっと応援よろしくお願いします。   ...</summary>
   <author>
      <name>kumana</name>
      
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         <category term="縄文人の集団統合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[ :D くまなです
　
原始時代の物の長距離移動は贈与なのか交易なのか？その議論をする上で重要な事例があります。「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%81">ポトラッチ</a>」です。
　
<img alt="info_3-03.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/info_3-03.jpg" width="200" height="150" /> <img alt="info_3-04.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/info_3-04.jpg" width="200" height="150" />
　
これは集団間の贈与の風習で、近代まで続いていました。今回は、そのような風習から、原始時代の物の移動の本質について紐解いくため、まずその風習について紹介します。
　
その前に、ポチっと応援よろしくお願いします。
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<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=28500">ポトラッチの実態</a>（るいネット）より

<blockquote>「ポトラッチ」というのは、アメリカ北西太平洋岸インディアンのチヌーク族の言葉で「与える」という意味ですが、地域により実態は異なります。平原インディアンも、貧しい人々を助けるために祭りを催し、特別な踊りを踊ったりしましたが、返礼を求めることはありませんでした。それに対して北西太平洋岸のインディアンは、大げさな宴会をひらいて高価な品物を配りました。その理由は、友情を確かめ合うというものから、他人に見縊られない様に、自分の富を見せつけるというものまで、様々でした。</blockquote>
<img alt="20080831_336055.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/20080831_336055.jpg" width="300" height="203" />


<blockquote>このポトラッチの主催者は、集まった有力者たちに豪華な贈り物をすることになっていました。遠くの村々から何百人という人びとが、ポトラッチに出席するために、カヌーをこいでやってきました。どのポトラッチも大変な騒ぎで、客に山ほどの食べもの、目用品、装飾品などが贈られました。ヒマラヤスギの皮から作った強力な糸で織ったブランケット、沢山の飾りをつけた篭、毛皮、服などが多数用意されました。貴重な魚油を燃やして、主催者の豊かさをひけらかそうとすることもよくあったそうです。すさまじいのは、自分の「財産」の多さを客に見せつけるために、「奴隷殺し」という特別な棒で奴隷をなぐり殺すこともあったことです。なかでも、最大の贅沢と考えられていたのは、銅板をこわしたり海にすてたりすることでした。自然銅に彫刻をほどこしたこの板は、ひとりの女が何カ月もかかってやっと1枚織りあげるブランケット4000枚以上の値打ちのあるものでした。</blockquote>
<img alt="chilkat.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/chilkat.jpg" width="200" height="155" />　　<img alt="80070041.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/80070041.jpg" width="143" height="155" />　
　　　　　　　ブランケット　　　　　　　　　　　　　　　　銅板

<blockquote>贈りものは、もらう側の必要度ではなくて階級によって決められ、階級が上の者ほど、多くの贅沢品をもらっていました。しかし、もらった者は、それを自分の部族と分け合う事になっていたし、後日、招いてくれた人を招きかえして、自分がもらった以上のお返しをしなければならなかったのです。もし返礼のポトラッチで、贈り物が貧弱だったりご馳走が少なかったりすると、その主催者の地位はゆらぎ、「面子を失う」ことになります。それとは逆に、はじめに招いた側の評判は跳ね上がったのです。この「相手より1歩先に出ること」は、時には大変な規模になって、家族や部族全体までもが破減に追いこまれることもありました。しかし、大抵の場合は、杜会的な抑制が働いて、ポトラッチが手に負えないほどエスカレートするのを防いだようです。この制度は、複雑で高度な一種の交換経済で、これによって、物が創られたり循環したりしていたのだ、という説もあります。</blockquote><img alt="nwcam26b.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/nwcam26b.jpg" width="300" height="207" />


<blockquote>マルセル・モースの観察によれば、ポトラッチは、理論上、外見上は「任意に」行われるものの、事実上、実際上は「義務的に」行われるものであり、「不履行」は「闘争」を引き起こすことさえある、というのです。どうやら、お二人の以下の見解が同時に成立しているようです。

＞おそらく現代的な感覚で彼らの価値を曲折して解説された感があります（田野さん）

＞近年に観察される未開部族も多かれ少なかれ私権意識に感化されており儀式も形式化している可能性はあります（橋口さん） 

つまり、観察者も色眼鏡をかけているが、その対象者もまた、本来の精神的要因を変質させてきている、ということです。ここでは、残存する本来の部分のエッセンスを抽出し、それが縄文人の精神性とどこまで一致するのか、しないのか、をさらに検証していけばよいのではないでしょうか。</blockquote><img alt="JHZK000Z.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/JHZK000Z.jpg" width="300" height="209" />


 :m146:  :m146:  :m146: 

<span style="color:#000080;">ポトラッチの風習は近世・近代のもので、古代の贈与にそのまま適用はできません。しかし、注目されるのは、富の蓄積を善しとする私権時代にあって過剰ともいえる贈与をやり続けるという風習であり、それによって部族が存続してきた＝統合されてきたという事実でしょう。</span>

<span style="color:#000080;">そこには、単位集団間の評価序列による統合原理が見出せます。さらにその原理は小規模部族の並立という状況においては、部族間の統合＝贈与による緊張緩和にも適用できたのではないかと考えられます。</span>]]>
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   <title>「私権文明を問い直す」シリーズ４～東洋と西洋</title>
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   <published>2010-02-20T00:30:00Z</published>
   <updated>2010-02-20T04:48:25Z</updated>
   
   <summary> 　　   　　　　　　　　　　　　(キリスト)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(孔子) 当シリーズの４回目は、前回に引き続き、「私権文明｣の成り立ちを追ってみます。 前回と今回の２回で、西洋と東洋の違いを押さえ、現代の市場社会につながる文明、思想はどちらの流れを汲むのか、その基底構造はどうなっているのかに繋げて行きたいと考えています。 まず私権文明を問い直す意義のおさらいですが、 ①文明の発祥の地とは、全て掠奪闘争が行われた地である。 ②故にそこに建設された国家とは、掠奪闘争の覇者が作ったものである。 　　つまり今日の文明とは、掠奪闘争によって生み出されたものである。 ③今日に繋がる人類の罪悪といわれるものは、シリーズ1回目の性闘争→掠奪闘争と、それに続く上記の、掠奪闘争→支配国家が生み出したもの。 ④人類が作り出した文明の帰結が今日の様な人類滅亡の危機となっている。 以上が私権文明を問い直す意義といえます。 上記のことを事実として認めるか否かは、「文明｣というものの実態を色眼鏡(固定観念)をかけずに見れるか否かに掛かっています。 私たちは、どんな課題を追求するにしても、固定観念を捨てて、「事実｣を直視することからしか、答えは見えてこないのだと思います。 ということで、先に進む前にいつものように応援よろしくお願いします。    ...</summary>
   <author>
      <name>saah</name>
      
   </author>
         <category term="ⅩⅠエトセトラ（その他諸々）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88.jpg"><img alt="%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88-thumb.jpg" width="300" height="231" /></a> 　　  <a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%AD%94%E5%AD%90.jpg"><img alt="%E5%AD%94%E5%AD%90.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%AD%94%E5%AD%90-thumb.jpg" width="126" height="231" /></a>
　　　　　　　　　　　　(キリスト)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(孔子)
当シリーズの４回目は、<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/02/001008.html">前回</a>に引き続き、「私権文明｣の成り立ちを追ってみます。
前回と今回の２回で、西洋と東洋の違いを押さえ、現代の市場社会につながる文明、思想はどちらの流れを汲むのか、その基底構造はどうなっているのかに繋げて行きたいと考えています。

まず私権文明を問い直す意義のおさらいですが、
<span style="color:#ff3300;"><strong>①文明の発祥の地とは、全て掠奪闘争が行われた地である。
②故にそこに建設された国家とは、掠奪闘争の覇者が作ったものである。
　　つまり今日の文明とは、掠奪闘争によって生み出されたものである。
③今日に繋がる人類の罪悪といわれるものは、<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/01/001003.html">シリーズ1回目</a>の性闘争→掠奪闘争と、それに続く上記の、掠奪闘争→支配国家が生み出したもの。
④人類が作り出した文明の帰結が今日の様な人類滅亡の危機となっている。</strong></span>
以上が私権文明を問い直す意義といえます。

上記のことを事実として認めるか否かは、「文明｣というものの実態を色眼鏡(固定観念)をかけずに見れるか否かに掛かっています。

私たちは、どんな課題を追求するにしても、<span style="color:#ff3300;"><strong>固定観念を捨てて、「事実｣を直視すること</strong></span>からしか、答えは見えてこないのだと思います。

ということで、先に進む前にいつものように応援よろしくお願いします。
<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a> 
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      <![CDATA[<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=2&t=2">実現論：第二部（私権時代）ロ、「私権文明を問い直す｣</a>～続き

<blockquote>　それに対して、モンゴル高原は見渡す限りの大草原であって、そこには同じ遊牧部族しかいない。加えて、イラン高原ほど乾燥が激しくない。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより<span style="background:#A4FFA4">支配・服属</span>という形が主流になる。

従って、<span style="background:#A4FFA4">勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての本源性を強く残す</span>ことになる。東洋人は、概ねこの遊牧→掠奪の北方モンゴロイドが、採集→農耕の南方モンゴロイドを征服した混血であり、従って東洋人は小氏族（大家族）の本源性を色濃く残しており、西洋人ほど自我を肥大させていない。</blockquote>
同じ掠奪闘争といっても、西洋と東洋では、大きくは片や「皆殺し」(西洋)、片や「支配・服従」(東洋)　に分かれていきます。その主原因は、
　①イラン高原は諸部族混在。モンゴル高原はほぼ遊牧のみの単一部族
　②乾燥度が異なり、イラン高原はきわめて深刻な食糧危機に陥っていた。

これが掠奪闘争の度合いの違いに結びついたと考えられます。

<blockquote>　この様な意識構造の違いは、夫々の思想の違いに典型的に現れている。
同じ二六〇〇年前頃に、西洋ではユダヤ教（→その後キリスト教）、東洋では儒教が登場するが、<span style="background:#A4FFA4">西洋の観念信仰が自我に基づく極めて独善性・排他性の強い唯一絶対神を非現実世界に構築</span>したのに対して、<span style="background:#A4FFA4">東洋の儒教は残された本源規範に基づく仁・義・信など、現実世界を導く関係規範に収束</span>した。

<span style="color:#ff3300;">本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を（架空観念として）再構築するしかなく</span>、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念（ex. 唯一絶対神）への思い込み信仰となるしかなかったのに対して、<span style="color:#ff3300;">本源的集団と本源的共認が残存している東洋人の方は、本源規範を私権秩序と整合させることによって現実世界を律しようとした</span>訳である。</blockquote>  
掠奪闘争の激しさの違いが、本源集団の残存度の違いに繋がり、その結果生き残った人々の精神的なよりどころの違いへと繋がっていきます。

精神的な拠り所であるはずの本源集団が壊滅した西洋は、頭の中でしか本源価値を構築できず、「架空｣観念へと収束せざるを得ない。
これが後の欺瞞観念（だましの観念）へと発展してゆきます。

本源集団を残した東洋は、集団内に残る規範と、現実の私権社会とを融合させる道をとった。これが現代の私たちの心に残存する本源性の中身といえるでしょう。

<blockquote>　本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。

もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか。 </blockquote>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E6%97%A5%E6%9C%AC.jpg"><img alt="%E6%97%A5%E6%9C%AC.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E6%97%A5%E6%9C%AC-thumb.jpg" width="555" height="370" /></a>
東洋と西洋では上記のような本源集団の残存度と、それゆえに収束すべき思想が欺瞞観念か、より現実的な規範を土台とした思想かと言う違いに繋がっていきます。
現代の市場の根底をなす構造が「騙し｣であるとすれば、それは西洋発の欺瞞観念から繋がっていることになりますし、近代市場自体が西洋から発展したことを考えれば、それは明らかだと思います。

とすれば、一方の東洋的思想、本源的な精神基盤というものが、今日危機を迎えた市場社会に取って代わる、新しい社会の構築への残された可能性といえるのではないでしょうか。

掠奪闘争→私権文明がその後今日の社会へとどう繋がってゆくのかは、次回以降整理していきたいと思います。]]>
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   <title>古代史探求の目的～当ブログの役割について（後編）</title>
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   <published>2010-02-19T16:37:11Z</published>
   <updated>2010-02-20T10:18:58Z</updated>
   
   <summary>こんばんわ。続きを投稿します。 この記事は縄文ー古代ブログを開設する前に仲間と投稿活動をしていた「るいネット」での史論版での探求を元に作られています。私の文章のつたなさもあり、正確に伝達できていない部分もあろうかと思いますので、このブログを読まれた方が「るいネット」へ参加されることも併せて呼びかけたいと思います。 「るいネット」の方は誰でもいつでも投稿できますので、疑問点や問題意識などを投稿していただけると盛り上がっていくと思いますのでよろしくお願いします。 また生物史まで遡って知りたい方は「るいネット」での史論ベースになっている「実現論「第一部　前史」　「第２部　私権時代」」をぜひ一読ください。この論文の骨子も実現論で得た認識を基にしています。 それでは続きです。 ポチッと押して進んでください！         ...</summary>
   <author>
      <name>tano</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅱ縄文時代" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="Ⅲ弥生ー律令" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="Ⅳ日本中世" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="Ⅴ中国文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="Ⅵメソポタミア文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="Ⅶエジプト・インダス文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんばんわ。続きを投稿します。

この記事は縄文ー古代ブログを開設する前に仲間と投稿活動をしていた「<a href="http://www.rui.jp/">るいネット</a>」での史論版での探求を元に作られています。私の文章のつたなさもあり、正確に伝達できていない部分もあろうかと思いますので、このブログを読まれた方が<span style="color:#ff3300;">「るいネット」</span>へ参加されることも併せて呼びかけたいと思います。
「るいネット」の方は誰でもいつでも投稿できますので、疑問点や問題意識などを投稿していただけると盛り上がっていくと思いますのでよろしくお願いします。

また生物史まで遡って知りたい方は「るいネット」での史論ベースになっている「<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=1&t=1">実現論「第一部　前史」　「第２部　私権時代」</a>」をぜひ一読ください。この論文の骨子も実現論で得た認識を基にしています。

それでは続きです。
ポチッと押して進んでください！
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]]>
      <![CDATA[<span style="color:#ff3300;">【私権社会の拡大と日本への到着】</span>
私権社会の波は西洋社会だけに留まらず、戦争の拡大と共に東は中国やモンゴル高原に広がっていきますが、海を隔てた日本に到着するのは弥生時代以降になります。

日本は朝鮮半島や中国からの渡来民を受け入れますが、彼らは<strong>本国で敗北した負け集団です。</strong>
私権社会のシステムや武力は持っていますが、<u>私権意識の強さという点では大陸の勝ち組からは劣っていました。</u>また、すでに縄文時代に強固な集団共認を形成していた日本を外部から来た小集団が支配する為には武力一辺倒ではダメで、まずは日本に定住し、日本に馴染み、自らの文化を伝え、日本人を大陸の文化に塗り替える必要があったのです。ミイラ取りがミイラになるという諺のごとく<strong>彼らは日本に定着する事で日本の共認域に染まっていったのだと思います。</strong>

大量渡来の波はいくつもありました。大陸での変動がそのまま日本列島に流れていきます。紀元前には中国大陸から、任那が6世紀に滅ぼされたときには大量に高官が到着します。
さらに古墳時代の７世紀後半には百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、その国王の一派が日本に漂着しました。その５０年後に作られた日本国は百済の新天地であるはずでしたが、同時にそれまで半島から漂着していた任那の高官や新羅や高句麗、さらに中国大陸に祖先をおく一派に度々反発を受け、日本国内でも渡来人集団同士で争いを繰り返していきます。

葛城―物部―蘇我から始まり天智―天武―持統―その後の奈良時代の天皇の変遷はその力学で決まっていきました。<strong>このように日本における私権社会の定着は一筋縄ではいかず、それまでの縄文時代のネットワークを駆使したものが勝者になっていきます。</strong>

<span style="color:#ff3300;">【日本での私権社会の変遷】</span>
日本はその後、隣国中国という巨大な外圧を受けながらも、海という最大の防衛力を有効に活用し、中国の介入を早期に排除、その後は独自の路線を継続させ、日本流の私権社会への転換を遂げていきます。
結果、<strong><strong>他国にはない朝廷と幕府という二極体制を作り上げ、その結節点に天皇を置くという非常に複雑な支配体制が江戸時代まで続くことになります。</strong></strong>他国が皇帝を中心とする力の原理に貫徹された判りやすい一極体性に対して、日本のそれは<u>支配を分散化させる方向</u>であり、江戸に至っても徳川は前に出ず、地方大名達と結びつく戦略（参勤交代）に出ました。

このように日本と世界の歴史は一面、連続してパラレルでありながら微妙に異なり、同じ封建社会や市場社会でも中身は異なります。<u>どのように異なっているのか、なぜ違いが生じたのか、これを読み解くには私権社会の純度と集団共認の残存度を秤に掛けて見ていく必要があるのです。</u>

常に戦争が絶えず、国境が刻々と変化してきた世界の国々は私権社会の純度の高い国家です。<strong>一方、国家成立以降大きな戦争もなく、国境は海に守られ、一度もまともな侵略がなかった日本は私権社会の純度は当然異なり、裏返せば縄文時代に培った不文律の共認原理が色濃く残存し、その影響は現代人にまで刻々と繋がっているのです。</strong>

<span style="color:#ff3300;">【縄文時代をどう評価するか】</span>
<blockquote>この縄文時代の共認を母体とした日本国の可能性をどのように評価するのか、またこの間世界に起きているさまざまな諸現象をどう読み解くか？</blockquote>

<strong>これは現在の先進諸国が私権社会の終焉を示しているとの見方が必要であり、新たな社会秩序の形成には私権社会以前の自然の摂理を見つめ、集団共認をベースにした本源社会に可能性はあるのではないか？というところに糸口を求めようとするものです。</strong>
5000年も前の社会にもどるということではありません。<u>あくまで集団や成員の拠り所とする意識の状態として、あるいはそれを統合する社会の規範や形態として、どのような認識や仕組みが適しているのか、それを模索していこうとするのがこの縄文ブログの役割なのではないかと思っています。</u>

<span style="color:#ff3300;"><span style="color:#ff3300;">【私権社会（＝市場社会）に変わる新しい社会の模索こそ当ブログの役割】</span></span>
20世紀はまさに工業生産から近代市場の成長に載って欧米が世界の中心でした。しかし、すでに欧米に凋落が始まっている現在、21世紀は明らかに別の時代が到来します。市場社会に変わる次の社会とは何か？同じように物が流通し、人は行き来するのですが、その中心に互いの親任関係や人々の認識を中心とした共認時代が到来することになるのではないかと考えています。

まだまだ半熟卵ですが、既に50名強の歴史に精通した会員が結集しているこのブログでは<span style="color:#ff3300;">これから数年以内に広く社会に提起できる共認社会の政策提案まで目指していきたいと考えています。</span>]]>
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